がんになってよかった10のこと

Ten good things the cancer has resulted in


ジャーナリストの竹田圭吾氏が自身のがんをTVで語ったのは、2015年9月27日でした。その3日前に女優の川島なお美さんが肝内胆管がんで亡くなり、4日前にはタレントの北斗晶さんが乳がんの治療をブログで明らかにした頃です。彼の言によれば、がんは『襲われて』『闘う』ものではなく、『むしろ共存していくもので、ちょっと種類の違う人生が続くだけ』とのこと。彼自身は2016年1月10日に亡くなり、彼が準備していたという『がんになってよかった100のこと』は3頁分しか遺されていませんでした。彼の気持ちは良く分かるので、私なりに『がんになってよかった10のこと』を書いてみたいと思います

Mr. Keigo Takeda, who was a journalist and died on 10th January 2016 because of the pancreatic cancer. He said he was not fighting against the cancer but was living with the cancer. The cancer gave him a chance to live an another life in coexistence with the cancer. He was preparing a book named "100 good things the cancer has resulted in". He could not complete the book because of his sudden death. I would like to list up 10 good things the cancer has resulted in.


目次 (クリックするとそのページに飛びます)

  1. 人生の一時停車
  2. 最低限の準備を済ませて
  3. 紅葉と桜の季節に
  4. 花粉症がないぞ
  5. ピロリ菌が消えたかも
  6. 皮膚が再生されちゃった
  7. 路線バスは便利だなあ
  8. BS放送とローカルラジオが面白い
  9. 新しい出会い
  10. 身内はありがたい

Contents(Please click the items to jump to the pages)

  1. Standstill of the life
  2. Completed the minimum preparation for death
  3. Seasons of autumn leaves and spring cherry
  4. No allergy against pollen
  5. Helicbacter Pylori might be disappeared
  6. My skin becomes new
  7. How convenient the public bus transportation is !!
  8. BS & Internet Local Radio
  9. Meet with new people
  10. Thanks to my relatives

1.人生の一時停車
Standstill of the life

考えてみれば、これまでの人生、ずっと走り詰めでした。

まともに休暇も取らない生活を40年近く続け、そして、突然、数ヶ月に及ぶ病院生活です。

大学の研究室時代はバイトとデートの他は自由時間がなく、その延長で研究所に就職してからも、好きでやってる研究だからと残業なんて概念はなく、まともに年休の消化もしませんでした。

最も忙しかったのは、国際科学プロジェクトの政府間協議の仕事をしていた頃。月曜日に仕事を始めて金曜日まで徹夜続き。早ければ深夜タクシーで帰るけど、遅くなると始発の電車で帰ってシャワーを浴びて服を着替えてまた電車で通勤。わざと反対方向の空いている電車に座り、終点まで行って戻ってくる時間を使って睡眠をとっていました。

休暇をとっても、限られた時間の中で、いかに有意義に『のんびり』時間を過ごすかという命題に常にチャレンジしていました。あるいは、フルマラソン山岳耐久レースなどに参加して、文字通り、走り詰めていました。

白血病治療のために、無菌病室に閉じ込められてベッドに横になり、じっとしている・・・治療期間も病状次第ではっきりせず、本当に『のんびり』する時間を持てたのは、人生で初めてです。

ベッドの上で、これまでの人生を振り返りました。確かに、やり残したこと、まだやりたいことは山のようにあるけど、でも、一方では、やり遂げたこともたくさんあります。家庭でも、妻を幸せにし(かどうかは不明ですが)、子供たちを育て上げ、孫の顔を見ることもできました。

がんになると、『闘病の末』に『無念の死を遂げる』という先入観がありました。でも、人生を振り返るうちに、もしこのまま治らず、あと○年と言われても、その時間をがんとともに生きる道もあるなあと思いはじめました。

突然の死に襲われて『無念の死を遂げる』人もたくさんいます。前途ある大勢の若者がバス事故で一瞬にして亡くなったニュースには涙が出ました。それと比べて、人生を振り返り、そしてまた違う種類の人生を考える時間を持てたこと、しかも、限られた時間の大切さを知った上で残りの人生を送ることができる。

これは、がんになってよかった、もっとも大きなことです。


2.最低限の準備を済ませて
Completed the minimum preparation for death

入院して、ベッドの上でパソコンが使えるようになってすぐに急性骨髄性白血病について調べました。それまで漠然とした知識しか無かったのですが、自分が当事者になると調査にも身が入りました。

いまは、インターネットを使って、相当に専門的で学術的な論文まで手に入ります。例えば、日本成人白血病治療共同研究グループ:JALSG (Japan Adult Leukemia Study Grougp)のページは、全国の白血病関係の主な病院が参加する白血病臨床研究グループのホームページですが、そこに無作為に治療法を変えた時の生存率の統計データとか、その際の患者毎の特記事項などの記述がありました。このようなデータが積み重なって、標準治療が確立されていくのですね。

現在もその活動は続いていて、恐らく私のデータもインプットされ、追跡調査がなされて、10年後にはインターネットで検索可能なデータとなるのでしょう。

入手可能な2000年頃のデータを調べてみると、急性骨髄性白血病の5年生存率は40%というデータがありました。世代毎の生存率のデータもあり、当然ながら年齢とともに生存率は下がって60才以上では20%台の生存率でした。近年、白血病の治療法は大きく改善され、『白血病は治る病気』と一般向けのHPには書いてありますが、年齢を考えるとなかなか厳しい状況のようです。

個別の死亡例なども見ました。62才男性の例。体調が思わしくなくて病院に行くと、白血球が5万を越えており、急性骨髄性白血病と診断されて、即、入院。体内の炎症反応を示すCPR値が20以上、血液の凝固・線溶を示すFDP値も20を越え、抗がん剤治療を始めたところ、FDP値が急上昇し・・・と全く私と同じ(というか、むしろ私の方が悪い)例があり、腎臓不全のため身体がむくんで体重が6kg以上も増え、他臓器の損傷もあって、入院20日後に死亡したという報告がありました。

ネット上の統計データや死亡例を見ていると、思い当たる事も多く、気分が沈んで、何だか体調も悪くなっていく気がしました。『これは見ない方がいい』と気付き、データ調査は一旦、止めました。

それにしても、やはり命にかかわる病気であることは間違いないし、医師から絶食を告げられた時や40度の高熱が続いた時には、さすがに危ないかなと思いました。

いま、このまま死んでしまうと、各方面に迷惑をかけてしまうな。仕事方面でもそうだけど、それはしょうがないな。それより、家庭のこと。私が管理している銀行口座や株取引の口座を分かるようにしておかないといけないし、インターネットや格安SIMカードの契約先、自動延長しているいろんな契約を纏めておく必要もある。家族の写真ファイルやムービーファイルも分かるようにしておかないといけないし、パソコンの中に入っているエッチなファイルもフォルダごと消しておかなければいけない。

遺言も必要かなと思うけど、まあ、家族争議が起こるほど財産がある訳ではないので、遺言はいいかな。

ただ、遺書ではないけど、父や母の想い出を記し、妻や娘、息子にも言葉を残しておきたい。実は、このホームページの大きな目的のひとつは、これでした。メニューには載せていないけれど、ホームページの隅っこに、家族についてのページを作りました。

親友や仲間との楽しい想い出の記録も残しておきたい。これは、その他のページにこれまでの記録として纏めました。

最低限の必要な事をまとめて記録に残しました。こんな時間を持つことができたのも、病気のおかげですね。


3.紅葉と桜の季節に
Seasons of autumn leaves and spring cherry

入院したのは10月末。北の国では紅葉の季節でした。無菌病室の窓から城跡公園の桜の紅葉が散っていくのが見えました。

抗がん剤で白血球がゼロになり、輸血が続き、果たして私自身の骨髄は再生する能力があるのだろうか、骨髄線維症を併発しているという診断は本当だろうか、この無菌病室を出て、外の空気に直接触れることができるのだろうかと、密かに心配していました。

そして、血液製造工場が無事に再生し、5週間ぶりに無菌病室を出ました。

体力をつけるため、一時帰宅して、運動のために自宅近くの公園に散歩に出ると、最後の紅葉が残っていました。

紅葉が青空に映えて綺麗でした。

背筋に何か走るものがあって、
『ああ、紅葉だ』と思わず、涙ぐんでしまいました。


クリスマスやお正月は転院先の病院の無菌病室で過ごし、2月に一時退院した際には、ちょど梅の季節でした。

普段の年なら、梅が咲いてるなとしか思わないのに、花びらの一枚、一枚が有り難くて、見惚れてしまいました。

紅葉や花の美しさを改めて認識したのは、がんになってよかったことのひとつですね。


4.花粉症がないぞ
No allergy against pollen

無菌病室の特徴は、ベッドアイソレーター と呼ばれる空気清浄機があること。最初の病院ではそれが病室のど真ん中にでんと置かれ、まるで空気清浄器の中で生活しているようでした。


転院先の病院では、ベッドアイソレーターは天井に埋め込まれていて、病室は広く、通常の個室病室のようです。ただ、窓は二重になっていて外気が入らないようになっています。

このベッドアイソレーターに使われているHEPAフィルター (High Efficiency Particle Air filter)は、0.3μm(マイクロメートル)の雑菌などの粒子を99.97%捕塵する性能を持っています。

因みに、中国から来る「PM2.5」は、2.5μmの Paticulater Matter(微粒子状物質)という意味なので、HEPAフィルターで除去できるし、スギ花粉(20μm〜40μm)やヒノキ花粉(30μm〜40μm)は当然、除去できます。

毎年、酷い花粉症に苦しむ私としては、花粉のシーズンにHEPAフィルター付の無菌病室にいるのは、かなり嬉しかったりします。



5.ピロリ菌が消えたかも
Helicbacter Pylori might be disappeared

白血病の抗がん剤治療では、抗がん剤とともに大量の抗生剤、抗菌剤が投与されます。白血球がゼロになって身体の抵抗力が無いときに、菌に冒されるのを防ぐためです。


点滴が無いときも、予防のために毎日、抗菌薬を処方されます。写真は、そのひとつ『レボキロフサシン錠』。

ネットで調べてみると、ピロリ菌の除菌に最初に使う薬ではないけれど、1回目、2回目の処方でピロリ菌が根絶できなかった時に、3回目の除菌くらいで処方される薬のようです。効果も強いが、副作用が強いので、最後の方法として使うのでしょう

ということは、抗菌剤の点滴を受け、強力な抗菌薬の処方を受けている私の身体は、ピロリ菌も含めてすっかり無菌状態になっているのではないでしょうか。


白血球が少なくなると、口の中の菌が暴れ出して、多くの人が口内炎に苦しみます。虫歯などがあると、虫歯菌のために生死に関わる事態になることもあるようです。

私も最初の治療の際は、口内炎になりかけて、時間をかけて歯磨きをした後(歯磨きくらいしかやることが無いので、本当に時間をかけてやりました)、うがい薬で口内を清潔に保ちました。

そのおかげか、それ以降は口内炎になることもなく、抗がん剤治療を受けています。ということは、私の口の中は、かつてなく清潔な状態ではないかと思う次第です。


6.皮膚が再生されちゃった
My skin becomes new

大量に投与された抗生剤に対するアレルギーが出て、発疹が出ました。最初は、腹部だけだったのですが、あれよあれよという間に、両腕の手首や太ももまで広がり、発疹はやがて繋がって全身が湿疹に覆われました。

皮膚科の医師が診て、『薬剤による湿疹ですね』ということで、副腎皮質ホルモンのクリームを一度に8本処方されました。皮膚科の病院に行った時に、『強い薬ですから、ごく少量の使用に留めるように』という注意書きとともに渡されるクリームです。

全身に塗るのも躊躇されたので、効果の具合を調べようと思って、クリームを塗った部分と、塗らない部分を作ってみました。腹部の右半分にはクリームを塗り、左半分はそのままにしておいたのです。すると、全く変わらないというか、むしろ塗らない部分の方が乾いてきて湿疹の色が薄くなりました。

やがて、全身の湿疹は乾いてきて、皮膜となり、その下から新しい皮膚が再生してきました。

最初の病院を退院して一時帰宅した時には、全身の皮膚が剥がれて床の上に落ち、抜け毛よりも、剥がれた皮膚で掃除機はいっぱいになりました。

久しぶりの浴槽に浸かった時には、湯の表面が剥がれた皮膚で覆われました。剥がれた皮膚の奥には綺麗な皮膚が再生していました。

ということで、現在の私の身体の皮膚は、まるで赤ちゃんのように新鮮な状態なのです。口臭や加齢臭なども消えた、とても綺麗な身体になったのです。



7.路線バスは便利だなあ
How convenient the public bus transportation is !!

北の国ではもっぱら車で通勤、出張や東京勤務の時は電車を使い、バスに乗る機会は殆どありませんでした。

入院してからの移動は、タクシーを使うこともありますが、路線バスが頻繁に走っていて便利なことが分かりました。機嫌の悪い運転手で不快な思いをし、千円札を用意した上で釣りの受け渡しに手間取るタクシーよりも快適です。

最近のバスは交通系のフェリカに対応しているので、おサイフケータイのスマホをかざせば小銭を探すことなく、簡単に乗り降りできるのです。

特に感心したのは、台東区のコミュニティバス『めぐりん』

3つのコースの『めぐりん』で台東区を隅々までカバーしていて、しかも料金はワンコインの100円。もちろん、おサイフケータイに対応しています。乗り換え駅では、乗り換えチケットをもらうと、追加料金なしで他のコースの『めぐりん』に乗ることができます。

一時退院中に谷中商店街を散策しました。そこから『めぐりん』に乗り、上野駅の公園口を経由して、かっぱ橋道具街に寄り、浅草寺まで乗って、バスからの景色を堪能した上で、100円でした。

谷中商店街を出てすぐに、中国人の家族が大きなトランクを持って『めぐりん』に乗ってきました。低床のバスで、身障者用車椅子のスペースもあるので、トランク持ち込みが平気なのです。3人で300円。上野駅の公園口で降りていきました。公園口からは上野駅の各ホームまで最も近くて便利です。地下鉄日比谷線の上野駅で降りると、旅行者はトランクを引っ張って地下道を延々と歩くことになります。実に旅慣れた一家だなあと感心しました。

ということで、がんになったおかげで、これまで知らなかった路線バスの便利さを再確認できました。



8.BS放送とローカルラジオが面白い
BS & Internet Local Radio

普段はテレビを見ることは殆ど無いのですが、病院で時間つぶしに地上波テレビを見ていると、日本の地上波テレビの3S( Sensational:扇情的、Sentimental:感情的、Superficial:表面的)な報道に食傷してしまいました。SMAP騒動のポイントはそこかいと突っ込んだり、ベッキーは全然悪くないじゃないかと思ったり、すぐにチャンネルを変えていました。見るとしても、テレビ東京の旅番組あたりに落ち着きました。

意外にいいなと思ったのは、BS放送。NHKのBS放送では、BBSと協力してイラク戦争を深く掘り下げた番組とか、科学番組、百名山踏破などの番組に感心しました。TBSやフジなどでも、映画や外国のTV番組を流していて、いいですね。

そして、無菌病室にぴったりなのが、インターネットラジオ。テレビほど邪魔にならないし、音楽と語りが適当なバランスだし、点滴の時とかベッドに寝転んで聞くのに最適です。ラジオなんて、むかし、受験勉強の時に深夜放送を聴いて以来ですが、無菌病室の入って見直しました。

世の中、長距離トラックの運転手さんとか、クリーニング屋さんとか、ラジオを聴きながら仕事をしている人も多いんですね。主婦の方も、掃除、洗濯、料理をしながら聴いているのでしょう。それに、若者の間にも、ラジオとインターネットという人が増えていると聞きます。

日本の地上デジタル局は危機感を持つべきです。独占状態で規制に守られ、それでいて『中立ルールを守らなくても、放送電波を止めるな』などという甘い事を言っていると、視聴者は若い人を中心に離れていくでしょう。NHK-BSやテレビ東京のような特徴のあるテレビ局が乱立して、競争して良いものが残っていく状態が望ましいと思います。

写真は、インターネットラジオ radikoの画面。地元の放送局だけでなく、月に350円の有料サービスで全国のローカル放送が聴けます。全国各地のローカル放送は、少し訛っていたり、とてもローカルな話題が楽しい。

最終的には、私の場合、ラジオ大阪がデフォルトで、気分によって、愛媛県の南海放送にしたり、青森県のRAB青森放送を聴いています。

WiFiでなく、携帯のSIM経由ですが、途切れることなく音質も良く、bluetoothでボーズのスピーカーに流すと、低音から高音まできちんと再生します。

データ量は、1時間聴いて、30-40MBくらい。選局の時に各局から数MB分くらいのデータをバッファーするようで、ころころ局を変えているとデータ量は増えますが、まあ、1日5時間くらい流していても、200MB。1ヶ月で6GBですから、私の3枚のSIMで合計10GMの中には収まると思います。 がんで入院して、BS放送とインターネットのローカルラジオ番組を見直したことは大きな収穫でした。



9.新しい出会い
Meet with new people

最初の大学附属病院で担当医になったのは、まだ若い中堅の男性医師でした。その医師を中心に、同じ年代の男性医師が1人、すこし若い女性医師が1人、医師になったばかりの若い医師が1人。その4人が私の医療チームを組んで、往診の時なども複数で来てくれました。

私はこんな長期入院も初めてですし、白血病の治療に関する知識も無かったので、担当医にいろいろ説明を求め、自分が納得した治療を受けようとしました。

担当医を初めとして、医療チームの若い医師たちがそれに応えてくれて、実に懇切丁寧な説明と処置を受けました。治療も当初の困難な状況から、完全寛解には至らないまでも、相当に良い状態にして頂き、大変感謝をしています。

ただ、若いこともあって、教科書にある標準治療どおりに進めようとしていて、私が説明を求めると、抗生剤や医療プロトコルに関する教科書のコピーを持ってきて、これが標準プロトコルだからと説明してくれました。私の望んでいるのは、私のデータをどう解釈して、どう最適の治療法を選ぶかということでしたので、少し意見の対立もありました。

若い医師団にとっては、私は扱い難い患者だったのかもしれません。私の妻を呼んで1時間くらい説明し『奥さんからも説得してくれませんか』と頼んだこともあったようです。

最初の病院に入院したと知った、私の口の悪い知人たちが『そんな地方の病院にいたら死ぬぞ。こちらに移ってこい』と連絡をくれました。実は、最先端のガン治療法であるホウ素中性子捕捉療法(BNCT)の仕事で、阪大病院と関係があり、設備の整った阪大病院に転院するように勧められたのです。

ただ、大阪人の口の悪さを知っている私は、大阪に移ることに少し抵抗がありました。私自身、関西系の人間ですが、東北で暮らすうちに、北国の人たちの寡黙さと温かさに心が洗われていたのでしょう。

最終的には東京の私の自宅マンションのすぐ近くの、日本のがん研究の中核病院に転院しました。そして、私の担当医となったのは、日本の白血病治療をリードする、世界的にも名の知れたバリバリの女医でした。

この女医が、12月始めに米国で開催された第57回米国血液学会(ASH)年次総会に出席することになり、その前に私の診断を希望したのが、私の転院が前倒しされた理由だったようです。

そして、この女医が、大阪人にも増して、口の悪い人だったのです。

1週間、高熱が続き、ベッドの上に起き上がることもできなかったのに、『明日、転院できるか』と聞かれ、そのせいでアドレナリンが放出されて、どうにか立ち上がれるようになりました。その状態で、新幹線に乗り、電車を乗り継いでやっとのことで着いた病院で、採血や手続きに引っ張り回され、とうとう歩けなくなって、車椅子の状態で女医に会いました。

すると女医。
『だめじゃない、こんな大きな身体しているのに甘やかして。こんな大きなのがゴロゴロしてたら扱えないでしょ』と妻に言い、私が『転院が早まり、さすがに今日は長旅で疲れたので』と弁解すると『まずは体力を回復しないどダメ』と一言。

その後もざっくばらんな性格で、いつもは若い医師に任せている中心静脈カテーテル(PICC)を自分が刺すようになった時には、患者である私の隣で『これ、どうやって刺すの?中身が伸びてこないんだけど』と最新型のPICCに慣れていない様子で別の医師に電話で聞いたあげく、心臓近くまでカテーテルを伸ばしてから、

『えっ、どこまで伸ばすの?』と女医
『前回は43センチでした』と私
『じゃあ、43センチにしましょう。でも目盛りが見えないわ』
『管に数字が書いてあります』と看護婦
『こんな小さな数字見えないわよ、あなた見て。何センチになってる?』

などと、大騒ぎをしたあげく

『どうですか?心臓はドキドキしませんか』と聞いてきました。
『もう、最初からドキドキです』私は答えました。

とはいえ、いつも若い医師が失敗して周囲を血だらけするPICC挿入を1発で決めました。

また、病状の説明や、治療の面談も的確です。信頼できる医師だということで私は任せきっています。

繰り返しますが、転院先の病院での治療が順調に進んでいるのは、最初の病院の担当医に、当初の困難な状況から相当に良い状態にしてもらったおかげです。改めて、最初の病院の若手医師に感謝をします。

優しい看護婦さんをはじめ、優秀な医師と出会うことができたことも、よかったことのひとつでしょう。


10.身内はありがたい
Thanks to my relatives

白血病になったと聞いて、家族はもちろんですが、私の郷里の兄や姉、義理の姉や兄、姪や甥が大変心配してくれました。

facebookの限定で病状を知らせるとともに、このホームページを作って治療日記を書きました。

転院が前倒しで決まって、突然、『明日の朝に転院できますか?1時間以内に返答したいのですが』と前日の午後に聞かれた時には、私の妻や子供に連絡しても応答がなく、職場の仲間も遠いので急には対応できず、唯一、facebookで状況を知った、義理の姉から、松山から今から東京に飛べば新幹線を乗り継いで間に合いそうだという連絡が来ました。

次の朝10時、時間どおり、松山から飛んできた実兄と、青森から新幹線でやってきたうちの奥さんが姿を見せて、医師からの最終伝達事項を聞いて、転院手続きをして、部屋にある私物や冷蔵庫の中のものをすべてトランクに詰め、11時台の新幹線の客となることができました。


その後も、この写真のみんなが心配してくれ、とても有り難く感じています。

医師から骨髄適合検査の話があった時も、兄と姉はふたつ返事で『何でもするよ』と言ってくれました。実際に、こちらの医師から郷里の四国がんセンターの医師に連絡が行き、骨髄適合検査に行く時間が決まった時には、誤解があって、兄も姉も、骨髄から血液を採取するのだと思って緊張していました。

私自身は、腕から10ccほどの採血をするだけだと思っていたのですが、実際には、口内の粘膜を採取するだけ。最近は、それだけで正確な型が分かるのだそうです。

決死の覚悟で骨髄適合検査に臨み、口の粘膜を採取しただけで気が抜けたという、兄と姉には感謝しています。


身内のありがたさを再認識したこと、そしてもちろん、職場の仲間や、関係のある会社や大学の皆さんの見舞いや応援を受けて頑張れることを、がんになってよかったことの最後の項目としてあげておきたいと思います。

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