コンプライアンスが日本を萎縮させる

Japan is shrinking because of "Compliance"


リオデジャネイロ五輪の有力なメダル候補だった桃田選手が違法カジノ店で賭博をしていたと報道され、五輪出場が絶望的となったとのこと。

プロ野球選手の野球賭博問題や、タレントや芸人の不倫問題、民進党の山尾志桜里議員の政治資金疑惑など、次から次へとどういう訳だ、けしからんと、『正義の味方』である、週刊誌や新聞、地上デジタル放送が騒いでいます。

少なからず、違和感を感じるのは私だけでしょうか。

視聴者や読者が『正義』が好きなので、それに迎合して『正義』を振りかざさないと商売にならない、という言い訳は理解できます。特に、昼間に地上波テレビを見ている人たちは、『正義』が大好きで、ちょっとした不倫や不正などが許せないのかな。そうでないと、ここまで感情的で薄っぺらい内容にならないだろうなと思うくらいです。週刊誌もターゲットとなる人たちの興味やレベルに合わせているのでしょう。しかし、少なくとも、自らの職業に誇りを持つマスコミ人として、心ある週刊誌くらいは、『正義の味方』にならず、何が正義か、それよりも大きな問題が隠れていないかというところを突き詰めて欲しいと思います。

現代の日本は、コンプライアンス(法令順守)が叫ばれ、徹底的に「嘘」や「不正」、「偽装」を排除しようとする厳格化が進んでいます。私は、この小さな失敗を許さない『空気』こそが、現在の日本を萎縮させ、発展を阻害し、そして結果として、人々の幸福を奪っていると思うのです。

小さな失敗が許されないので、企業は冒険的で画期的な製品が生み出せず、政治は、胆力の座った豪傑が排除され、官僚は、利発で失敗をしない秀才たちが前例を踏襲するだけの行政を行っていて、それらが、日本の発展を妨げているのではないでしょうか。

安全についても、『過ぎたる安全要求は、安全に繋がらないばかりか、むしろ危険である』ことに留意する必要があります。安全、安全といって、本質的でない、枝葉末節的な事項に拘っていると、本質的な安全がないがしろにされるのです。

小さな失敗を許さないことが、大きな失敗を招いてしまう。
ゼロリスクを追及するあまり、大きなリスクを見逃してしまう。

どう言い換えてもいいですが、自然や人間は機械ではないので、ある程度のポラティリティ(揺らぎ)を許容しないと、爆発するのです。

福島の原発事故が起こった時、『あの科学技術に優れた日本でも原発事故が起こった』と世界の技術者は驚きました。しかし、よく内容をみると、起こるべくして起こったともいえます。

事故を起こした福島原発は、米国の内陸に立地した原発をそのまま日本の海岸に持ってきたものです。米国の内陸で恐ろしいのは竜巻です。従って、非常電源は竜巻の被害に遭わない地下に設置されていたのです。しかし、日本の海岸で恐ろしのは竜巻でなく津波です。だから非常電源は地下ではなく津波の被害に遭わない高い所に設置すべきだったのです。

なぜ、こんな簡単な変更が出来なかったかというと、ガチガチの安全申請、規制基準にあります。僅かな変更でも、申請し直すのは大変です。実績のある型をそのまま使う方が楽だったのです。

運転し始めてからも、何万項目もの点検チェックを行い、安全に本質的でない部分でも、それに少しでも瑕疵があると叩かれ非難される。その対応に忙殺される余り、安全性にとって本質的な欠陥を見逃し続けてきたのです。

これは、製作したメーカー、東電の技術者や経営者にも責任がありますが、規制を行う役所にも、そして、本質的でない事象を事故として誇張して報道してきたメディアにも責任があると思います。

柏崎原発だったかどこか忘れましたが、ある時、地震か何かで水が漏れた時に、ある大手の新聞は『9万ベクレルもの放射性物質が漏れた』と騒ぎました。人の体内には通常7千ベクレルくらいの放射性物質がありますから、20人の記者が集まれば、そちらの方の放射能の方が高いにもかかわらずです。(この報道は分かっていてやった意図的なものですが、同じ大手新聞が、先日、川内原発周辺の計測器の半分が性能不足と報道したものは、理解せずにやった誤報道で、記者の質の低下が著しいと感じました)

福島事故の後始末でも、100ミリシーベルト以下では障害は見られないという、世界で蓄積された科学的知見を無視して、年間20ミリシーベルトという妥当な値でなく、年間1ミリシーベルトまでの除染を目指すという馬鹿げたことになっています。世論に迎合して感情で政治を行った結果です。3兆円という費用を、将来、間違いなく起こる首都直下型地震の対策に充てれば、何百人、何千人という人の命が助かるでしょう。

(目の前の事象についてのみ)ゼロリスクを目指すあまり、(本当は目に見える筈の)大きなリスクを招いているのです。

閑話休題。話を元に戻します。

端的にいえば、政治家はいい政治ができればいいし、スポーツ選手はその種目で強ければいい。経営者は将来を見通した経営ができればいいし、芸人は人々を楽しませればいいのです。全てに関して品行方正なことは、必要ないのです。というか、全てに満点の人なんていないし、むしろ、大きな欠点があっても、それを補って余りあるくらいの良い点があれば、大きな欠点に目をつぶるべきだと思います。

例えば政治家。移ろいやすい民意、熱しやすい世論から距離を置き、冷徹な目をもって過去と未来を洞察し、政策を決定するのが政治家です。日本のあるべき姿を洞察できる資質を持ち、具体的な行動指針で問題点を解決する不撓不屈の精神が必要です。細かな事に惑わされない、大きなストレスでも胃潰瘍にならないような、胆力の座った人をリーダーにしないといけないのです。その人の政治資金に少しくらいの疑惑があっても、男であれば妾の一人や二人がいても当たり前だと思います。

スポーツ選手は勝負の世界で勝つことが重要であって、そのための品行方正は要求されません。その道を究めたスポーツ選手には、自然と品格が付随してくるのであって、まず、品格方正であることが優れた選手の条件ではありません。むしろ、真面目で欠点の無いスポーツ選手は大成しないでしょう。

ただ、スポーツの世界で相撲だけは別だと思っています。相撲は歴史のある『神事』であり、力士は故郷の山や海を代表して土俵に上がるのです。その時、力士は神が乗り移ったと見なされているのですから、相撲には品格が要求されます。レスリングとは違うのです。

またまた、閑話休題。話を元に戻します。

いつの頃からか、私の業界でもコンプライアンスが叫ばれ、補助金の使い道が問われ、勤務評価が取り入れられました。

勤務評価には、指導統率力、企画独創力、判断力、説得力、専門知識、積極性、勤勉、協調性、責任感などの細かな項目があって、それぞれ何点満点中何点かというものです。

つまり、評価される人材というのは、指導力があって独創性に優れ、説得力や判断力があって勤勉で責任感があって協調性の全てに優れた人という訳です。そんな、完璧な人は実際にはいません。居たとしたら、どこかにもっと大きな抜けがある筈で、少なくとも私は信用しません。

科学者は、本当は、飛び抜けた独創力や、追随を許さない専門知識があれば、少しくらい責任感がなくても、協調性がなくても、優れた人材の筈です。ところが、そのような人材を評価するしくみになっていないのです。

もともと、勤務評価というのは、評価基準をきちんと作って、公平で納得性の高い評価を行い、処遇に反映させようという意図だったのでしょう。しかし、漏れのない評価基準をそのまま当てはめるということは、「完璧な姿を目指せ」と言っているのであり、不得意や苦手を認めないということに等しいのです。これを続けていると、当然ながら、能力が画一化してきます。科学にとって最も重要な、独創性や革新性が失われるのです。

これは、日本のメーカーも陥っている隘路です。欠点のない人材を揃えれば、活力がでて、組織がうまく周り、業績があがるというのは間違いです。殆どの人はどこかに欠点はあるが、それを補う長所もあるという現実を無視した、理屈、理念にしか過ぎません。

現在、グローバル化した世界は、多様性が重要になりつつあります。多様な価値観や能力を揃え、そこから革新的な技術を生みだし、それを真っ先に達成した者だけが勝者として、利益を総取りするという世界です。画一化した人材しかいない、安全運転しかしない会社は世界に遅れ、(いくら目のつけどころがシャープでも)つぶれたり、買収されたりしてしまうでしょう。

イノベーションは、小さな失敗の積み重ねです。小さな失敗を許す社会でないと、活力が出ず、革新的な技術や、本当に能力のある人は生まれません。薄っぺらい『正義』や『倫理』で、優れた人を潰すことが無いようにしないといけない。小さな失敗を大きく取り上げて非難する現在の風潮では、日本の将来は暗く、大きな失敗に繋がってしまうと思うのです。