死と向かい合うということ

Prepare the mind for death


母は、若くしてC型肝炎を患い、それが肝硬変、肝臓がんとなって、入退院を繰り返したあげく最後は病院のベッドの上で亡くなりました。母が死期を悟った頃は、見舞いに来ていた実妹(私の叔母)と一緒に、病床で念仏を唱え、写経を行っていました。そして、亡くなった祖母や早世したもうひとりの妹にあの世で会えるのを楽しみにしていたそうです。

念仏と写経によって心が落ち着き、そして本当にあの世があって、そこで母が祖母や叔母に会えていたらいいなあと思います。

死への怖れ、死と向かい合う苦しみを緩和するのは、宗教の重要な役割なのでしょう。

若くして命を絶たなければならなくなった特攻隊員たちにとっては、「靖国で待ってるぞ」という言葉は死への怖れ、命の苦しみを和らげるために必要な心の支えだったのでしょう。

同一視する訳ではありませんが、イスラムの自爆テロの実行犯も、自らの命を捧げることにより、来世におけるより良い復活を心から信じているのでしょう。

ローマによる平和が健在だった、パスクロマーナ時代のキリスト教徒は、神の国の到来を待ちながら邪悪で堕落したこの世に生きていると教えられ、ローマによる支配に非協力的でした。五賢帝のひとり、トライアヌスは、キリスト教の蔓延に危機を覚え、キリスト教徒は反国家行為を行った者として死刑とするという法律を作りました。改宗か死刑かの選択を迫られた多くのキリスト教徒たちは「教えを捨てないで死ねば、必ず救済が待っている」として死刑を選びました。

それをみた五賢帝のひとり、哲人皇帝のマルクス・アウレリウスの言葉が残っているそうです。「魂が肉体から離れねばならないときに、それを安らかに受け止めることができたら、何とすばらしいことだろう。だが、この心の準備は、人間の自由な理性によって達した結果でなければならない。キリスト教徒のように、かたくなまでの思い込みではなく」と著書「ローマ人の物語」の中で塩野七生氏は記しています。

私もマルクス・アウレリウスと同じ考えです。宗教に頼るのではなく、理性で死を受け止めたいと思います。

近年、ソーシャルケアワーカーの必要性が叫ばれています。私の入院している病院にも末期の患者を看取るための緩和ケア病棟がありますが、肉体的な痛みは医学的な措置により緩和できても、精神的な苦しみは医学的な措置では免れることができないのでしょう。

実際に、宗教家の新しい形として、末期の患者さんの精神的なケアをする役割が重要視されているようです。

例えば、日本スピリチュアルケアワーカー協会では、高野山真言宗の委託を受けて講習会を企画しています。その内容をみると、

「唯物論的な近代教育を受けた世代の人たちが、死を考えるようになった時に、多くの人たちが自分が生まれた意味や価値を内省し苦悩する時代が訪れようとしています。こうした苦悩に耳を傾け、ある時は心の良き姿見として、ある時は良き同伴者となるような僧侶を育てます。特に現代僧侶に欠けている「聴く」という能力の向上をめざします。

また専門的な能力をつけて、医療・福祉・教育現場に赴いて、スタッフの一員として心や魂のケア(スピリチュアルケア)ができる僧侶を養成します。

死を目前にした人や根源的な苦しみを訴える人々の話を聞くことが出来る僧侶は、現代人が最も求めている宗教家の姿です。そして次の世代の僧侶に、新しい可能性を与えてくれるはずです」

とあります。 また、医師であり僧侶でもある田中雅博氏は末期がんになり、余命数ヶ月の中で記したその著書「いのちの苦しみは消える」の中で次のように述べています。

人は残された命があとわずかだということが分かると、死ぬのが怖いという「いのちの苦しみ」がやってきます。それは、医学では救うことができません。

なぜ「いのちの苦しみ」が生まれるかというと、「自分に対するこだわりがあるからだ」とお釈迦様は言っています。「自分への執着」を捨てるのが仏教の生き方ですが、「いのちの苦しみ」の緩和は仏教だけではありません。自分の人生がどんなものであったとしても、そこに価値を見出して「自分の人生の物語」を完成させる。そして、そこにいのちより大切なものを見つけることができれば、「いのちの苦しみ」は緩和できるのです。

そのために、医療現場にはスピリチュアル・ケアワーカーが必要です。スピリチュアル・ケアワーカーとは、患者さんや医療従事者の「いのちの苦しみ」のケアをする専門職です。患者さんの話を傾聴して、本人の人生・価値観を尊重します。そしてその人が「人生の物語」を完成させるのをお手伝いする。

私は、宗教家が来て、お釈迦様がどうのとかキリストによれば、というのは拒絶しますが、この「自分の人生の物語」を完成させるというのは共感できます。

自分の人生に価値を見出し、「まあ、これでいいかな」と思える状態にする。私が「やり残したことも山のようにあるけど、やり遂げたこともたくさんある」という心境になって、こころ穏やかになったのはこれだったのでしょう。

若くしてがんを患い、妻子を残して死ななければならない人の心境を思えば、「自分の人生の物語」を完成させるどころではないでしょう。でも、やはり、自分の愛した妻や子供、そして両親や友人がいるということは、かけがえの無い、その人の人生の価値だと思うのです。

死者は生者の記憶の中でしか生きられないのです。

私が、高熱と絶食の中で、このホームページを立ち上げようと思ったのは、心配してくれている人達に現状を知らせるという目的もありましたが、それ以上に、「自分の人生の物語」を文章として残しておきたいと思ったからです。

家族にも私の言葉を残しておきたい。また、私の母や父は私の記憶の中で生き続けてきたのですが、私が死ねば、私の持っている母や父の記憶も消えてしまうでしょう。その時に、ああ、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんはこうだったんだなと私の子供達の記憶に残して欲しい。

私自身についても、自分の歩んだ道、そして到達した所を記しておきたい。幸い、私のいくつかの仕事は論文や本として残っているけれど、私の考え方や生き方も簡単にでも記しておきたい。

実は、このホームページにメニューには載せていませんが、家族についてのページや私自身のページも作りました。それが完成すれば、何があっても、こころ穏やかに対処できるのかなと思っています。

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