ロシアへ愛を込めて

To Russia with love


目次

  1. はじめに
  2. 準備
  3. モスクワ空港の寒い夜
  4. 雪のノボシビルスク
  5. 空港、そしてアエロフロートについて
  6. ホテルの人々
  7. 運転手とガソリン
  8. 国立劇場
  9. 研究所の人々
  10. 踊り明かして
  11. クレムリンの日本語ガイド
  12. 買い物と物価
  13. ノボシビルスク研究所
  14. 治安について
  15. 日本へ


1.はじめに

 ロシアの中央部、シベリアの入り口にノボシビルスクという街があります。人口150万人弱のその街のはずれに、アカデムゴロドクという研究学園都市があり、ロシア(旧ソ連)の多くの研究機関が集まっています。日本でいうと、東京とその北にある筑波学園都市というイメージですね。
 これは、そこのノボシビルスク研究所に招かれて滞在した時の体験と、モスクワ、キエフなどへ2度ほど旅行した際の旅行記を思いつくままにまとめたものです。

 ロシアに対して一般の日本人の印象は決していいものとはいえず、また実際に多くの不愉快な面はありますが、個人としてのロシア人は人なつっこく親切です。特に、日本と日本人に対して親しみと強い憧れを抱いており、いったん懇意になると、本当に心を開いてくれます。それらのロシアの人たちへの愛を込めて、書いてみようと思います。

2.準備

 ロシアへ行くと聞いて、何人かの人が忠告してくれました。以前にアメリカのアルバカーキに初めて行った時、「あそこは砂漠地帯で水が高価だから、ある程度の水は持って行った方が良い」と言われて、1ガロンの水を背負って行ってみんなに笑われた経験を持つ私。今回は複数の人に確認の上、次のものを準備しました。

 まず、ストッキングと煙草。ストッキングはホテルなどで係の女性にプレゼントするためです。
「ホテルのフロントでチェックインしようとしても、フロントの女性は無駄話しをしていて振り向いてくれません。そこで、『すみませ〜ん!』などど大声を上げて、話の邪魔をしてはダメです。無視されます。その時、そっとストッキングを出すのです。そうすると、30分待つところが10分ですみます」とA氏。
「街角でタクシーを拾おうと思っても、まずつかまらないね。そういう時、煙草の箱を持って手を上げるとすぐ止まるよ。煙草はマルボロ、ハードケース入り。これに限る。で、乗ったら、市内なら2本でいい」とB氏。
 確かに、後で述べるようにストッキングは絶大な効果を発揮しました。また、煙草はホテルや街角でよくねだられます。レストランなどでもウェイターにマルボロをひと箱渡すと、無いはずの酒や食べ物が出てくるのです。私自身は煙草を吸わないのですが、常にポケットに2箱くらい入れていました。

 次に、よく旅行案内書にも書かれていますが、風呂の栓となるゴルフボールかそれ相当のもの。私の場合、一般のロシア人が泊まる中級ホテルだったので、外人専用の高級ホテルとは違うのかもしれませんが、風呂の栓は常にありませんでした。やはり日本人ですから、湯船に湯を満たし、ゆったりとつかりたいもの。その時、本当に重宝しました。

 風呂といえば、タオル、せっけん、トイレットペーパーも持参したいものです。これらは一応ホテルにあるのですが、その品質たるや最低です。トイレットペーパーなどは2Hの鉛筆で字が書けるくらい堅いのです。トイレットペーパーは日本から持ち込んだものに替え、備え付けのものはメモ帳として使わせてもらいました。
 最後に食料。これは大切です。モスクワあたりの外人専用の最高級ホテルにはドルショップがあって、何でも売っていますが、一般のホテルは大きなホテルなどでも食料が全く無いという事態があり得ます。夜中に腹がへって目がさめても食べるものが無い、これはみじめです。その時、トランクにしのばしていたチキンラーメン、缶詰は宝物でした。

 ビール。これは本当に恋しかった。初めて行った時には、重いので持って行かなかったのですが、毎日毎日、酒といえばウォッカしかなくて、つらい思いをしました。大きな街のドルショップ、外人専用店には世界のビールが売られていますが、田舎の方にはありません。結局、ノボシビルスクに滞在した時はビールなしの生活でした。

3.モスクワ空港の寒い夜

 モスクワのシェルボチーボ国際空港がロシアの玄関口です。ヨーロッパへ向かう時に何度か立ち寄ったことがあり、免税店の女性は綺麗だけれど何となく暗いなという印象を持っていたのですが、1階に降り、入国審査を通るとそこは別世界です。照明はうす暗く、エスカレータ、電話などは軒並み壊れていて、色彩の無い厚手のコートを着込んだ人であふれています。
 「空港でアレキサンダーという男が待っている。彼がホテル、食事、ノボシビルスクへの飛行機など全て面倒を見るから、お前は心配しなくて良い」と言われて、何の予約も無しに空港に降り立った私。さあ、冒険の始まりです。

 陽光あふれる南フランスを発ち、夕方、6時に空港に到着しました。ターンテーブルの前で1時間半ほど待たされ、ロビーに出たのが7時半すぎ。例によって名前札を持った人が大勢待っています。私の名前を捜しながら、まず1往復。見つかりません。で、2往復。やはり、見つかりません。どうなっているんだ、と思いながら1時間ほど待ちましたがアレキサンダー君は現れません。後でわかったのですが、アレキサンダー君は到着日を1日間違え、その日は旅行に出ていたのでした。

 8時半ころになって、これではいけないと思い、アレキサンダー君に電話をかけてみることにしました。そのためには、まずルーブルが要ります。空港の両替窓口に行って、
「Exchange, please」
とドル札を出しました。
ところが、窓口のおばちゃんは
「ニエット(ロシア語でNoの意味)」
と言って取り合ってくれません。
「24時間オープンと書いてあるじゃないか。どうして両替してくれないんだ」
と食い下がっても首をふるだけです。
押し問答(といっても英語とロシア語ですから意味が通じないのですが)をしているうちに、見かねた一人のロシア人紳士が来て、
「ルーブルがもう無いので両替できないのだ」
と教えてくれました。
「他に両替窓口は?」
「空港には無い、モスクワ市内にはある」
モスクワまでは30〜40kmあります。あきらめて、その紳士に電話をしたいのだと話すと、これを使いなさいとコインをくれました。

 ロシアの市内電話は、コインを入れなくても受話器をとると発信音がして、相手と通じた後にのっけておいたコインが落ちる方式です。最初、それを知らない私は、故障した電話相手に無理にコインを突っ込み、貴重なコインを食われてしまいました。で、また別の人にコインをめぐんでもらって、アレキサンダー君に何度も電話をしました。当然、居ません。

 そうこうしているうちに、お腹がすいたので1階のビュッフェに行き、ドルで支払おうとすると
「ニエット」
 空港の3階にドルの使えるレストランがあると聞いて行くと、9時5分。
「何か食べられますか?」
と聞くと
「ニエット」
9時にオーダーストップだそうです。
 長距離電話をノボシビルスクにかけようとすると、
「ニエット」
市外電話の置いてある郵便局が閉まっているのです。
 10時になり、これはいかん、と思った私はホテルを頼もうとインツーリスト(国営旅行会社)の窓口に向かいました。
「ホテルをお願いします」
「バウチャーを出して下さい」
「持っていません」
「では、ダメです」
やはり、「ニエット」と言われてしまいました。

 普通、ロシアに旅行する場合は日本でホテルや乗り物などの予定を全て決め、バウチャーと呼ばれるクーポン券を準備しないとビザがおりません。私の場合は研究所からの招待状だけでビザをもらった訳ですから、当然バウチャーは無くて、それが無いとインツーリストはホテルを世話できないというのです。
 実は、インツーリストではなくトランジットという窓口へ行くと、臨時のホテルをとってくれるそうなのですが、その時は何も知りません。空港内を徘徊している「タクシー?」と聞いてくる人相の悪い男に頼むのも恐くて、とうとう一夜を空港であかすことにしました。ドルをルーブルに闇両替し(本当は犯罪だそうですが)、ビュッフェで貧しい食事をとり、持参のチキンラーメンをかじり、しんしんと冷え込むシェルボチーボ空港で眠りました。

4.雪のノボシビルスクへ

 一夜が明け、両替所で50ドルを両替し、厚さ5cmあまりのルーブルの札束をコートのポケットに突っ込んだ私は、郵便局が開くのを待ってノボシビルスクに長距離電話をかけました。今回、私を招待してくれたのはノボシビルスク研究所のディモフ博士とデュデュニコフ博士です。日曜日なので、二人の自宅に電話をかけてみます。ところが、例によって最悪の電話事情。モスクワ−シベリア間なんて通じません。市外電話の前にも10人以上が列を作り待っているので、一人で長時間占有する訳にもいかず、何回かかけては並び直すという具合に3時間にわたり20回以上かけました。が、結局通じません。

 10時。私の堪忍袋の緒もきれかかりました。「もう、日本へ帰ろう」そう思った私は空港の6階に日本航空のオフィスがあると聞いて、訪ねることにしました。廊下のオフィスの前に机があり、ロシア人が座っています。オフィスのドアをあけようとすると「ニエット」。また、言われてしまいました。聞くと、12時にならないと開かないとのこと。オフィスは常時開いている訳ではなく、日航の飛行機の発着時間帯のみ開くのです。

 仕方なく12時まで待って、やっと日航の職員の方の暖かい笑顔に出会うことができました。
 日航の方に事情を話すと、早速夕方のフライトをとってくれることになりました。
「でも、ここの電話を使ってもう一度試してみたらいかがですか?たまにかかることがありますよ」
という日航の方の親切に甘えて、お茶を飲みながらまた長距離電話にチャレンジです。5度、6度やはりダメです。途中までカチカチという交換器の音がするのですが、プツッと音がしなくなるのです。7度め。な、な、何と呼出音がするではありませんか。デュデュニコフ博士の自宅です。
「デュデュニコフ博士ですか?私です」
「おお、ヨシ!どこからかけているの?」
「まだモスクワ空港です。アレキサンダー君には会えませんでした」
「なに!彼は迎えに行っていないのか。誰もお前の面倒を見ていないのか」
とあわてている様子。
「それで、残念ですが今回は日本へ帰ることにします。今日の夕方のフライトで発ちます」
「待ってくれ。どうにかして迎えのものをやるから、あと2時間、いや1時間半だけ待ってくれないか?どうだ、待てるか?」
「私は、昨夜から20時間待った。あと1時間半くらい待つのは容易なことですが・・・」
と私。
あとで、あの言葉はこたえたと笑い話になりました。

 1時間余りして、60才くらいの紳士が若い女性と一緒にやってきました。
「私はレオノフ博士。これは私の娘です。デュデュニコフ博士に頼まれてやってきました」
娘は、日本人と聞いて興味があるのでついてきたとのこと。少し、英語を話します。博士の車に乗って、モスクワの市内を通り、ノボシビルスクへの便が出ているドモジェドボ空港まで行きました。途中、娘がたどたどしい英語で市内の案内をしてくれます。

 空港に着き、博士が窓口で全ての手続きを済ませてくれました。フライトは夜9時発、ノボシビルスクには朝着く予定です。博士と娘に礼を言って別れ、私は空港の外人専用待合い室でしばしの休息をとりました。
 ノボシビルスク空港には定刻通り、朝6時に着きました。空港の待ち会い所でデュデュニコフ博士に会い、ひと安心です。

 4月のノボシビルスクはまだ冬です。その前夜も雪が降ったそうで一面の銀世界。空港の近くにはところどころに白樺の林がありますが、それ以外は地平線まで何も無い見渡す限りの雪です。
 画用紙に線を一本いれただけでこの景色は書けちゃうな、と考えていると、
「ノボシビルスクが最も美しいのは6月です」
とデュデュニコフ博士。
「6月になると、花が咲き、新緑がとても美しいのです」
「なるほど、6月が春なのですね」
「7月は、暑くなり、オビ川で水泳をする人もいます」
「ふむふむ、夏ですね」
「紅葉は8月に始まります。8月はもう秋です」
「じゃあ、それ以外の月は?」
「冬です」
「・・・・・・」
えらい所に来てしまったと思った私でした。

5.空港、そしてアエロフロートについて

 ここで、ロシア国内の空港とアエロフロートについて書いておきましょう。
ロシアの空港の特徴は、空港の設備が外国人用とロシア人用に分かれていることです。まず、外国人専用の入り口を入り、専用のカウンターでチェックインをして専用の待合い室で待ちます。時間になると係りの女性がやってきて、その女性の引率のもと専用の搭乗口を通って専用のバスに乗り、飛行機に入ります。そこで初めて一般のロシア人乗客に出会う訳です。

 専用待合い室には、古いながらもソファーがあって広々としています。専用の売店、ビュッフェなどの設備もあります。外国人の数は極めて少なく、私一人ということもありましたが、その小数の外国人のためだけに係員が何人もいて立派な設備があるのです。外国人というか、きっとその昔、共産党の高官などの一部特権階級はこちらの待合い室を使ったのでしょうね。

 一方、一般のロシア人用はどうかというと、椅子も満足に無いうす汚れた待合い所です。込み合った中、立ったまま、あるいは床や荷物の上に腰をおろして、じっと待っています。飛行機に乗る際にもバスなどは無く、荷物を持ったまま歩いて行きます。アエロフロートは、サービスのためにわざわざターミナルの近くに飛行機を止めたりしないですから、へたをするとターミナルから飛行機まで1km以上あります。雪まじりの寒風の吹きすさぶ中、大きな荷物を持ってぞろぞろと歩くロシア人を見ると「忍耐」という言葉が浮かんできます。

 サービスという概念はソ連にはなかったのですね。アエロフロートはいわずと知れたソ連国営航空ですが、サービスが良い、悪いという以前の問題が起こります。「お客様は神様です」という我々の常識からすると考えられないことですが、例えば飛行機が到着すると、まずパイロットが先に降りるのです。「パイロットは、操縦をして大変だったのだから優先的に降りる。乗客は乗せてもらったのだから、到着してもパイロットが降りるのをじっと待っている」のが当然という感覚です。乗客の荷物にしても、乗客が自分で飛行機まで運び、飛行機の入り口のところにある荷物室に自分で置くのです。ですから、ロシアの人々はターミナルから飛行機まで歩くにしても荷物がいっぱいで大変です。

 さすがに大きな荷物は預けるのですが、この荷物がなかなか出てきません。私も1度預けてひどい目に会ってからは、常に自分で持ち込むことにしました。
 それに、スチュワーデスの無愛想なこと。乗客あたりのスチュワーデスの数が少ないので無理ないのかも知れませんが、およそサービスということをしません。天井から水滴が落ちたりしてきて寒く、毛布を頼んだこともありますが、きっちり無視されてしまいました。機内サービスの食事にしても、機械的に配るだけで乗客の希望を聞いたりは決してしないのです。もっとも、選択肢というのが有り得ないのですが。

 この無愛想さ、融通の無さは、ホテルでもデパート、レストランでも、また、郵便局、鉄道の窓口など、どこでも同じです。およそサービス感覚というのが無いのです。仕事を離れたロシア人というのは、結構陽気で親切なのに、どうして仕事中は人間が変わるのだろうと不思議な感じがします。
 思うに、ソ連時代、仕事の評価というのは減点法だったのでしょうね。規則通りに仕事をすると満点。サービスのため、改良のためだといっても規則以外のことをすると減点の対象となったのでしょう。単なる減点ならまだしも、管理者にとって都合の悪い者を処分する口実にもなり得たのでしょう。それが何十年も続くうちに、人間を変えてしまったとしか思えません。

 ソ連の停滞の原因もここにあります。人間というのは本質的に向上心があるものです。どういう職業にしろ、常によりよい仕事をしよう、改良しよう、という欲望があり、それが自分の仕事への誇りと意欲につながるのです。あまりに計画され管理された仕事に進歩がないのは当然のことです。

6.ホテルの人々

 さて、氷結したオビ川をわたりアカデムゴロドクに着きました。この町はオビ河畔の人造湖に面して建設された人口約4万の科学研究都市です。白樺の林の中に各種の科学研究機関が散在しています。
「あれが、地理学研究所、こちらは大学」
と博士が説明してくれます。
 ソ連の基礎科学はレベルが高く、私自身の大学の時の数学の教科書もロシア人によって書かれていましたが、その人が働いていた数理研究所もあって感激しました。

 ホテルに着くと、デュデュニコフ博士がフロントで手続きをしてくれ、ストッキングの世話になることなく、無事部屋に入ることができました。部屋は広く、窓からは白樺の林とそのむこうに4階建てのアパートが見えます。
 部屋にはテレビと電話がありますが、このテレビが何と真空管式。スイッチを入れても1分くらい反応がありません。壊れているのかな、と思っていると中心部から映像が広がってきます。白黒の映像です。実に30年前の日本のテレビそっくりで、少年時代を思い出してしまいました。
「部屋を出る時と寝る時は必ずテレビのコンセントを抜くように。火事の原因になりますから」
とデュデュニコフ博士が何度も念をおします。実際にテレビから発火して火災になるという事故が数多く起こっているそうです。真空管式の電器機器は、まだ広く使用されているようで、マーケットなどでも数少ない品揃えの中に真空管(MT管)が多く売られているのを見ました。
 他の設備も同様で、壁の電球は切れているし、ラジオは鳴らない。風呂の栓は無く、湯は熱すぎたり冷たかったり。
 まあ、仕方ありません。ガマンガマン。

 ロシアのホテルの管理体制は、日本や欧米とちょっと異なっています。即ち、ホテルにはフロントがあるのですが、それはチェックイン・アウトの時に世話になるだけです。鍵の管理その他は、ホテルの各階にフロアガールと呼ばれる女性たちがいて、その人たちの仕事です。

 このフロアガールが交代で24時間常駐しているのには驚きました。ノボシビルスクの私のホテルは6階建で、各階15部屋くらいの比較的小さなホテルですが、このホテルの各階にフロアガールが居るのです。即ち、たった70〜80部屋くらいのホテルを運営するのに、フロアガールだけで3交代x6階=18人。フロントに常時3〜4人、ドアの警備員、ポーター、クローク(ロシアでは、どの建物にも入り口近くにコートを預かる大きなカウンターがあります)、レストランの番人など別々の役目の人が交代で働いているのです。

 ひとことで言うと、恐るべき非効率、人の無駄な配置です。ロシアの全ての職場にいえることですが、機械的に人を配置するとこうなるという典型です。レストランの番人など、入り口の机の前に座って、たまに来る客に「待て」と言っているだけですからね。
 日本だったら5分の1の人数で運営できちゃうな、と考えてしまいました。

 さて、2〜3日ホテルで過ごすうちに私の階担当のフロアガールたちの顔がわかってきました。ひとりは、20才前半のちょっと背が低くて丸顔、薬師丸ひろ子に似た女の子、ひとりは、50才くらいの日本の典型的なおばさんという感じの女性、あと、35才くらいで身長の高いきつい感じの女性です。
 朝、「ドーブラエウートラ(おはよう)」と声をかけますと「ひろ子」ちゃんと「おばちゃん」はニコッと笑って返事をしてくれます。深夜、1時ころに帰ってきた時も、それまでソファーに横になって仮眠していたにもかかわらず機嫌良く鍵を渡してくれました。

 そこである日、日本から持ってきたストッキングを「ひろ子」ちゃんに
「プレゼントだ」
といって渡しました。2足組300円のものを4袋、デパートの紙袋に入れたままです。
「ひろ子」ちゃんは紙袋をあけて中を見ると、パッと顔を輝かせて
「○○××」
といいます。どうやら
「本当にもらっていいのか?」
と言っているようです。うなずくと、とても喜んでくれました。

 パンティストッキングを女性にあげる、なんてことは失礼になるのではないかと危惧したのですが、全く問題がないようです。ロシアの若い女性にとって西側、特に日本のストッキングはあこがれの的であって、殆ど手に入りません。ロシアでたまに手に入るのは、スタイルなど問題外の厚手のものであって、しかもそれを修理しながら使うのです。(後日、市場でストッキング修理のための器具を売っていて、その前に長い列ができているのを見ました。)

 その日からです。朝、私が部屋のドアを開けエレベータの方へ向かうと、「ひろ子」ちゃんが走って来てエレベータのボタンを押してくれます。
「スパシーバ(ありがとう)」
と言って、しばらく立っていると、ときどきエレベータの呼出ボタンのライトがふっと消えます。接触不良かなにかで正常に動作していないのです。すると、また「ひろ子」ちゃんがタタタと走ってきて、ボタンを押してくれます。そして、
「○○○○○○、××××××」
と真剣な顔をして教えてくれるのです。
どうやら、
「ライトが消えたら、また押さなくちゃダメよ」と言っているようです。
日本のエレベータに慣れている私は、一度押すと大丈夫と思っているので、いつも忘れてしまうのですが、その度に「ひろ子」ちゃんは走ってきて真剣に教えてくれました。
「うん、うん」とうなずいて「スパシーバ」とまた礼を言うと、はにかんで、とてもいい笑顔を返してくれました。
 結局、それからこのホテルに滞在している間、「ひろ子」ちゃんは毎朝私のためにエレベータのボタンを押してくれました。

 一方、「おばちゃん」にはパンティイストッキングは疑問だったので、日本から持って行った藍染のハンカチをあげました。これもとても喜んでくれました。そして、会うたびに「お茶を飲んでいけ」といいます。朝晩なにかと忙しく機会がなかったのですが、何度も誘われた後のある日、言葉に甘えることにしました。フロアガールの控え室のようなところに招かれて、サモワールというお茶のセットで紅茶を入れてくれます。ロシアの紅茶は、まず非常に濃く入れて、それをカップに注いだ後、湯で何倍にも薄めて飲みます。クッキーも出してくれたのですが、これが小麦粉と塩だけと思われるしろもの。とても食べれたものではないのですが、失礼になってはいけないと思ってバリバリ食べました。

 「おばちゃん」は話好きです。紅茶について、クッキーについて、そして家族のことについて話してくれます。「おばちゃん」はロシア語以外は、全くわからないので英語でも日本語でも同じです。私は日本語であいづちをうち、私の家族について財布に入れた写真を見せて話しました。
「おまえの母親は、おまえにとても良く似ている」と言って笑い、「おばちゃん」の夫や子供達の仕事についてジェスチャーを交えて話してくれました。

「おばちゃん」の会話の中には、「ヤポンスキー(日本人)」という言葉がしばしば出てきました。どうやら日本人が好きだと何度も言っている雰囲気でした。
 後で、知ったのですが、ノボシビルスクの街を建設する時に、多くの日本人捕虜が連行されて働かされたそうです。それらの日本人捕虜達は、真面目で正直で、そして賢かったということで、ロシアの人々は感心したそうです。それが今でも伝えられていて、日本人に対して非常に良い印象を持っている一因となっているとのことでした。

 戦後、シベリアに連行され、遠く故郷に想いをはせながら亡くなっていった日本人が多くいて、そのおかげで私が歓待されたというのは今考えても申し訳ないような気分がします。

7.運転手とガソリン

 ノボシビルスクに滞在している間、私のために研究所の車が1台用意され、どこへ行くのにも運転手がついてくれました。国立劇場にオペラを見に行った時など、夜の7時から11時くらいまで、運転手は寒い駐車場でじっと待っているのです。それが仕事とはいえ、恐縮を通りこして不気味でした。

 この車というか運転手が頻繁にガソリンスタンドに寄るのです。2日に1回くらいの割合で寄り、そのたびに30リットル余りを給油します。それほど走っていないはずなのに不思議です。そこである日、同乗のベルチェンコ博士に聞いてみました。
「この車の燃費はいくらくらいですか?」
「知りませんが、このクラスだと1リットルで8kmくらいだと思います。運転手に聞いてみましょうか?」
「いえ、その必要はありません。ただ、頻繁にガソリンスタンドに寄るのでよっぽど燃費が悪いのかなと思ったのです」
「いいえ、燃費は悪くありません。ガソリンスタンドに寄るのは別の理由です。実は、運転手たちはガソリンスタンドで研究所の金で給油したあとで、こっそりとガソリンを抜いて、自分や家族や親戚のものに分けるのです。それで、すぐガソリンが無くなるので頻繁に寄るのです」と笑って答えてくれました。
 運転手はみんなやっているとのことで、特にこの運転手が悪いのではないというのです。逆に、そういうふうにしないと生活できないのかも知れません。しかし、いわばこれは業務上横領であって、犯罪ですよね。

 思うに、ソ連の共産党支配の社会というのは、それぞれの地位を利用しての横領、わいろ、役得が横行した時代だったのでしょう。平等社会といいながら、実際には共産党の一部特権階級は国家の名のもとに別荘を持ち、車を持ち、ぜいたくな暮らしをしていたのです。そういう甘い汁をすっていたのは一部の特殊な人々と考えられがちですが、この運転手の例にみるように社会のすみずみまでこの慣習ははびこっていたのですね。上の者がいろいろな役得で儲けているのを見て、下の者もそれなりに地位を利用するという構図です。長い共産党支配の間に全ての人々がそまってしまったこの悪習は、今後のロシアの改革に大きな障害となるに違いありません。

 悪習といえば、もうひとつ問題だと思うのは「長い物には巻かれろ」というのがあります。共産党支配下の恐怖政治のもとで、人々は保身のために権力に対して反抗する意欲というか習慣を無くしてしまったのです。
 4月のノボシビルスクは雪どけの季節ですから、暖かい日には道路の雪がとけ、ぬかるんでいます。ロシアの一般の人々は車を持っていませんから、大勢の人々が道路を歩いています。その道路を私の乗った車は、猛スピードで走りぬけるのです。道路がぬかるんでいますから、当然、泥まじりの水をはねます。道路の両側をコートのえりをたてて歩いている人々に、当然のように水をはねかけ、走り抜けていくのです。最初、驚きましたが、さらに驚いたことは、歩いている人々がそれに対して文句を言わないのです。日本だったら、いかに総理大臣が乗った車であっても、歩行者に水をはねたらみんな文句を言いますよね。

 ところが、ここロシアでは、車を乗り回すような地位の高い者に対しては、文句を言わないというか言えなかったのです。後日モスクワでも、最高級車(ジルなど)に乗っていればどこに駐車してもいい、誰も文句をいわないと聞いたことがありますが、権力を持つものに対して理不尽なことでも反抗しないという習慣が人々に染み着いているのです。ロシアの今後の民主化のために、人々の心の奥深くに染み着いたこの習慣は目に見えない大きな障害だと思います。

8.国立劇場

 ノボシビルスクには有名な国立劇場があります。第2次大戦直後に建設された立派な建物で、バレーとオペラが交互にかかっています。ロシアの旅行案内所でノボシビルスクの項を見ると、わずか1頁足らずの記述の中にこの国立劇場だけは入っていたので、有名だろうと思います。来日も一度あるということなのでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。

 ある日、私を招待してくれたディモフ博士が、この国立劇場の席ををとってくれました。ディモフ博士と劇場の支配人が友人だということで、「いい席をとったからね」と言われていたのですが、私とデュデュニコフ博士とベルチェンコ博士の3人で行ってみると、なんと最前列の中央です。目の前の低くなったところに80人ほどのオーケストラ、そして目の前いっぱいに広い舞台が広がります。
「いい劇場に連れてきて頂いて、どうもありがとうございます」
とベルチェンコ博士に礼を言うと、
「いや、こちらこそ、お前のおかげでこんないい席で見える。こんな席ははじめてだ」
と喜んでいます。

 後日、ニューヨークのメトロポリタンオペラハウスでトスカというオペラを見る機会があったのですが、それと比べると客席は同じか少し小さいくらい。が、舞台ははるかにこの国立劇場の方が広く、こっています。出演者の数も100人近くあろうかという、大人数です。最初、20人近くの子供達も出てきて驚きました。子供達は出番が終わるとすぐ帰るのだそうです。

 ニューヨークでトスカを見た時には、ヒロインの女性がとても太っていて雰囲気がでなかったのですが、ここの女性はなかなか綺麗でした。男性の声も、また舞台装置も良く、感激しました。

「国立の劇団なのでこれだけの人数を維持できているが、このところの社会の混乱のために観客数も減り、また劇団の予算を維持するのも難しくなっている。いつまでこの文化が維持できるか疑問だ」
とデュデュニコフ博士は言います。
 確かに、2000人以上は入ろうかという客席に観客はまばらです。
 日本やアメリカでオペラのチケットが高い、手に入らないとこぼしている向きには、この国立劇場はお勧めです。今なら、前列のいい席が簡単にとれるでしょうね。

 幕の間の休憩の時間に、ベルチェンコ博士が劇場の博物館に連れて行ってくれました。展示物の中に、この国立劇場の建設風景の写真があります。見ると、日本人捕虜たちがたくさん働いています。
「お前は、最前列の中央で見る権利がある。なぜなら、この劇場は日本人によって建設されたからだ」
とベルチェンコ博士がいいました。

9.研究所の人々

 私を呼ぶという決定を下してくれたのは、ディモフ博士です。博士は私の研究分野では非常に有名な方で、私自身も大学のころ博士の論文をたくさん読んだ経験があります。何年か前にアメリカで開催された国際会議で一度お会いしたことがあり、その時の私の発表に興味をもたれて招待してくれたわけです。

 ソ連科学アカデミー会員。1万人以上の職員を有するこの研究所のトップの一人です。ところが、ちょっと見ると日本の大工のおっちゃんという感じ。アジア系、モンゴロイドなので丸顔で日本人のような顔つきです。唯一、目の色がブルーなので日本人でないな、とわかります。
 バイカル湖のほとりに生まれ、魚をとって育ったそうです。若い頃英語を学ばなかったということで、あまり流暢に英語をしゃべれないのですが、会話の中でわからない言葉があると徹底的に説明を求め、最終的には全てを理解してしまうのには感心しました。私など、アメリカ人と会話するときには、わからなくても「まあ、いいや」とうやむやにしてしまいがちですが。
 「日本と我々は同じアジアだ。アジアの中で協力しようじゃないか」
と何度も私に向かって言います。モスクワとここは違うのだ、ウラル山脈からむこうは別の国なのだという意識が見えました。研究所の科学者たちもアジア系の人がたくさんいます。

 私達の研究分野で外国の研究者と会うという時、それは欧米人を指します。いわゆるコーカソイドに属する人種です。人種差別をする訳ではありませんが、それらの人々と付き合っている時にはやはり外国人と付き合っているなという意識があるのですね。ディモフ博士と一緒に討論し、食事をしていると不思議と心がなごむのを感じて、自分と同じ顔つきの人というのは安心するものだなと思いました。

 ある日、ディモフ博士が自宅に招いてくれました。研究所のトップですからどんないい暮らしをしているのかと思ったら、4階建てアパートの3階。2LDKです。リビングの広さが12畳くらい、日本のアパートとかわりありません。
 あとで、ベルチェンコ博士に聞くと、このアパートが最上級だそうです。
「ディモフ博士やデュデュニコフ博士は高い地位にいるから、独立した何部屋もあるフラットをもらえる。普通の科学者のアパートはずっと狭いのだ。トイレなども共用になる場合が多い」とのことでした。

 とっておきのウォッカを出してくれて、いわしの缶詰を開けて乾杯です。ウォッカにもピンからキリまであるのだということを初めて知りました。ホテルで煙草を駆使して手に入れて飲むウォッカと比べると、はるかにマイルドでおいしいのです。ロシア人は乾杯がとても好きなようで、この後あちこちで大変な目にあうのですが、ディモフ博士とも何度も乾杯をしてすっかりいい気分になりました。
「いい音楽がある。聞かせてやろう」
「どんな音楽ですか?」
「私の一番好きな歌だ。日本の歌手だよ」
といって真空管式のプレーヤーにカセットテープを入れて聞かせてくれたのが、五輪真弓です。8年くらい前、日本の研究者にオリジナルテープをプレゼントされたそうです。
「この歌手を知っているか?うまいと思わないか?」
というので良く知っていること、今でも活躍していることを教えてあげました。ついでに、歌詞の意味をかいつまんで教えてあげ、一緒にハミングしました。後日、博士には最新の五輪真弓のカセットテープを送っておきました。

 このところの食料事情の悪さのせいかどうか知りませんが、人々は研究所の食堂で昼食をたっぷりとります。それがいわゆるDinnerであって、夕食は一般に貧しいもののようです。博士のお宅でも夕食は決して豪華といえるものではなかったのですが、十分に歓待してくれて感激しました。
「そうだ、日本茶(グリーンティー)あるぞ。飲むか?」
とい言うので頼むと、新聞紙にくるんだどす黒いブロックを持ち出して来ました。良く見ると繊維状のものが見えます。ハンマーを使ってはしっこを割り、湯にいれると、なるほど緑色のお茶になりました。
「日本のお茶と比べてどうだ?これは中国製だと思うが」
「えーっと、日本のお茶はばらばらで、こんなに固まってなくて・・・・」

10.踊り明かして

 とりとめもなく書いてしまうのですが、ウォッカで失敗した事件についても書いておきましょう。
 これは、後日、モスクワのクルチャトフ研究所を訪問した時のことです。やはり研究所が用意してくれた中級ホテルに泊まりました。200室くらいのホテルですが、日本人はおろか欧米系の外国人はひとりもいません。ホテルのフロントも殆ど英語を話さないので世話をしてくれた研究所の人が帰ってからがひと苦労です。

 ホテルの1階にレストランがありました。入り口の番人にレストランに入る資格のあることをどうにか納得させ、ドアを通ります。
 ロシアのレストランは相席が常識です。いかにレストランがすいていてテーブルが余っていても、ウェイトレスは都合のいい席から順番に相席させていきます。
 その時、ウェイトレスに連れていかれた4人がけの席には、すでに3人の男たちが座って食事をしていました。ひとりは女のようなやさ男、あとの二人はひと癖ありそうな人相です。「いやだな」と想いながら座ると、あんのじょう、男達が声をかけてきます。適当にあしらっていると、「やさ男」がそれではと言って席をたちました。どうやら「やさ男」はたまたま相席していただけで酒を勧められ迷惑していたのですが、二人組のほこ先が私に向いたのをいいことに逃げていったようでした。

 まず、ウェイトレスが来てテーブルチャージとして金を要求します。日本円換算で8円くらいと、ロシアの物価からすると極めて高いのですが、その理由はあとでわかります。次に注文をとりにきたので、メニューを要求しました。ウェイトレスは面倒くさそうに、ぼろぼろのメニューを持ってきます。
「注文します。これは?」
「ニエット」
「これは?」
「ニエット」
「これは?」
「ニエット」
例によって何を聞いても無くて、結局あったのは、飲物はウォッカのみ。あと、黒パンとサラミソーセージと薫製の鮭です。何のことはない、男達がテーブルの上に並べているものが全てです。

「何もないよ。メニューなんか見ても同じだ」(と言ったと思う。以下同じ)
と男達が笑っています。
結局、同じものを頼んで、ウォッカはボトルでもらうことにしました。
 注文して待っているうちに、男達がウォッカを勧めます。ソーセージや鮭も食えといいます。なかなか、注文したものが来ないので「ええい、いいや」と思って男達の杯を受けることにしました。
 1杯、2杯と飲んでいるうちに、だんだんと気分が楽になってきました。男達はほんの少しの英語とフランス語をしゃべります。英語のレベルは私のフランス語と同じくらいです。英語とフランス語とロシア語を駆使して会話が始まりました。

 二人はレニングラードに住む貿易商。一人は42才で妻と娘二人がいます。もう一人は28才で独身です。
「こいつはまだ結婚していないのだ。ガールフレンドがいるのだが、結婚を申し込めないのだ」と「四十男」が冷やかしています。

ウォッカで乾杯して、お返しに「四十男」の妻のためにも乾杯しました。
 あと、「独身男」のガールフレンドのためにも乾杯し、娘のため、子供のために何度も乾杯しているうちにボトルが空になりました。
 ルーブルで払うレストランですから値段は知れています。ウォッカ1本が10円くらい、ソーセージや鮭の薫製は1皿5円くらいです。ウォッカを何十本頼んだって、何十皿料理を頼んでも千円もあれば十分なのです。
 早速、追加のウォッカを頼み、水のように飲んでいるうちに3人ともできあがってしまいました。

 夜、9時になると楽団がやってきました。レストランはフロアーの中央が広くとってあり、一方に楽団が入るためのスペースをとってあります。夜になると楽団の音楽にあわせてフロアー中央でみんなが踊るのです。そうです。ロシアのレストランは実は総合娯楽場なのです。
 モスクワ最大の繁華街であるアルバート通りにしても、ディスコやゲームセンタ、スナックなどが立ち並ぶ新宿、六本木と比べると本当に寂しいものです。では、ロシアの若者達の娯楽は何かというと、ひとつはレストランで踊ることのようです。

 9時前から4、5人組の若者たちがレストランに来て、テーブルチャージを払っただけで食 事もしないで座っています。それらの若者はレストランで踊るのが目的です。若い女性だけのグループも何組もいて、音楽が始まると若い男達が女性のグループの所に行って踊りを申し込みます。最初、若者達がみんなバラの花束を持っていて、何故持っているのか不思議に思っていたのですが女性にプレゼントするためだったのです。

 踊りが始まると陽気な「四十男」と「独身男」が黙っているはずはありません。「独身男」は「おれはガールフレンドがいるから」と最初は遠慮がちだったのですが、そのうちに女性だけのグループのところに行っては踊りを申し込み始めました。女性達はほとんど断ることもなく、一緒に踊っています。
 私も当然誘われたのですが、踊りの要領がわからないので断っていました。

 そのうち、「四十男」が女性グループの品定めを始め、ひとつのグループに的を絞りました。ところが、このグループにやはり目をつけた若者5人組がいたのです。最初、交互に申し込んでは踊っていたのですが、とうとう、ある時、申し込みがかち合って、「おれが先だ」「いや、おれが先だ」と口論になってしまいました。
 「独身男」はひとりの若者の胸ぐらをつかんでいます。「困ったことになった」と思いました。若者達からみれば、私はあきらかに「四十男」、「独身男」の仲間です。けんかになって仲間とみなされれば、モスクワでひとあばれしなくてはなりません。仲裁にいくか、しらんぷりをしているか迷っていると、回りの人たちが仲裁に入っています。どうやら大丈夫そうです。私も知らぬ顔をしている訳にもいかず、立ち上がって「独身男」を止めに入りました。

 そうこうしているうちに皆で仲直りだから乾杯をしよう、ということになって乾杯をした後は、もうみんな仲間です。とうとう私も誘われて踊りの輪の中に入りました。5、6曲に1曲くらいロシア民謡が入って、フォークダンスがあります。女の子から踊りを教えてもらって踊ったあとは、もう何でも。続けて何曲も踊りました。女の子は私のロシア語がおかしいといっては笑います。このあたりになると、私の記憶もさだかではありません。

 夜11時になって、そろそろ終わりというころになると、すっかり打ちとけて同じテーブルで飲んでいました。「四十男」がウォッカをもらって、部屋 で飲もうと提案しました。女の子たちはついて行っていいといいます。それからの話は、差し障りもあるのでここでは省略しますが、なかなかに貴重な体験でした。次の朝、私の体はぼろぼろだったことだけ書いておきます。

 なお、ロシアの観光用の高級ホテルはどうかというと、立派なドルレストランがあり、欧米と同じ様な雰囲気で食事を楽しむことができます。ただし、泊まっていると、必ず若い女性が声をかけてきます。例えば、レストランで食事をしていると、むこうに女性3人組がいて、そのうちにその一人がやってきて、
「私たちは、あなたがあなたの国で車を所有しているかどうか賭けをしました。私は、持っていると思うのですが私の友人は『若いから持っていないだろう』と言います。持っているかどうか教えてくれませんか?」
ときれいな英語で質問します。
「2台所有している」
と答えると、もどって行って、こちらを見て笑っていますが、しばらくするとまたやって来て、
「私は今晩あなたを楽しませてあげることができる」
というのです。レストランで断っても、部屋にもどるとフロアガールを介して、またそれを断ると電話がかかってくる、という具合に女性のサービスを断るのはなかなか大変です。

 不思議なことにこれらの女性は非常にうまく英語を話します。一般のロシア人が殆ど英語を話さないのに不思議なことです。また、若く美しい女性が多いのも特徴で、誘惑に負けないのは大変です。ちなみに、それらの女性の「案内料」の相場は100ドル・・・と聞いています。

11.クレムリンの日本語ガイド

 ついでに、モスクワで出会った日本語ガイドさんについても書いておきます。
 ある日曜日、モスクワ見物をすることになりました。モスクワを一人で歩いたことは何度かあったのですが、クレムリンの中を見学するにはガイドがいた方がいいというので、クルチャトフ研究所の人がインツーリストを紹介してくれました。聞くと、英語のガイドは20ドル、日本語のガイドは30ドルという話です。日本語ガイドというのは面白いというのでそちらを頼むことにしました。

 約束の時間に行くと、30才くらいの綺麗な女性が待っています。
「こんにちは。わたしはナターシャといいます。よろしくお願いします」(原文のまま)「わたしは、イベリア航空に勤めているのですがアルバイトに日本語のガイドをしています。わたしは、日本へいったことはありませんが、日本はとても好きです。いつか日本へ行きたいと思っています」
と自己紹介をしてくれます。
思わず、
「はじめまして。私は奥村といいます。あなたは、日本語がとても上手ですね。ロシアで日本語で話せる人に会って、とてもうれしく思います。よろしくお願いします」
とふだん使い慣れない、美しい日本語を使ってしまいました。

 ナターシャさんはポーランドに生まれ、モスクワで日本語教室に通って独学で日本語を覚えたそうです。英語はしゃべりません。
「わたしは英語はきらいです。アメリカも好きではありません」
と断言し、
「いつか、日本へ行ってみたいと思います。桜の咲くころにいってみたいです」
といいます。そして日本へのあこがれを夢をみるように話してくれました。

 クレムリンの宝物館などを回っているうちにお昼になりました。払ってあげるから、といって一緒にインツーリストの外人専用ホテルのドルレストランに入り、昼食をとりました。そのころにはすっかり打ち解けて、
「今度、モスクワに来たときには、インツーリストを通さないで直接私に連絡して下さい。無料で案内してあげます。私の電話番号はこれです」
と会社の電話番号と、女友達と一緒に暮らしているという自宅の電話番号を教えてくれました。
 ナターシャさんとは、後日シェルボチーボ空港で再び会うことができました。

12.買い物、物価

 ノボシビルスクのホテルの近くには、スーパーマーケット、ショッピングセンター、映画館、本屋などがありました。単にこう書くと買い物に不自由しないようですが、とんでもありません。
 例えば、スーパーマーケット。日本の普通のスーパーの食料品売り場くらいの面積があります。ところが、中はがらんどう。わずかに何列かのショーケースがありますが全く品物がのっていません。壁ぎわに長い列があって、その先頭で、パン、牛乳、ハム、ジュースだけを売っています。それぞれ、種類は1種類。選択の余地などありません。ハムは太い不細工なもの、ジュースは5リットルくらい入ったものが1種類だけで、とても列を作って何時間も待って買うような代物ではありません。何度か来てみましたが、結局何も買いませんでした。ある日、特に長い列ができている時には、鶏肉とアイスクリームが売られていましたが、やはりアイスクリーム1個のために列に列ぶ気にはなりませんでした。

 ショッピングセンターのほうは、小さな売り場がたくさんあって、衣類、化粧品、雑貨、電器製品などが売られています。品数は極めて少なく、広いショッピングセンター全体でも100種類以下です。もちろん全てがルーブル単位ですから、日本円に換算するとタダのようなものです。たとえばセーターは1着が50円、長靴は20円、毛皮の帽子が80円という具合です。ロシアはバッジを良く売っているのですが、バッジは日本でなら500円くらいするだろうな、というものが2個で1円です。
 ただし、バッジ以外は購買意欲などわきません。セーターにしろ長靴にしろ同じデザインのものが1種類か2種類ずつ、ずらっと列んでいるだけで、そのデザインたるや最悪です。ここではバッジだけ買いました。

 ロシアの店で商品を買うのは大変です。商品は壁ぎわに並べてあって手にとってみることはできませんから、まず列を作って無愛想な売り場の女性に、見せてくれるように頼みます。次に、「買う」ことを告げると売り場の女性は紙に番号と値段を書いてくれます。その紙をもってレジの前に列ぶのです。レジには主任と思われる尊大な女性がいて、その人に金を払うと紙にマークをしてくれます。そしてそれを持ってまた、売り場に列び、やっと商品を手にいれることができるのです。実に時間の無駄、人の無駄です。

 長靴をたった1種類、30足あまりしか置いていない売り場にも、3人の女性がついています。ともかく、どんな売り場にも3人以上います。これが、何故かというと、一人はレジの前に座るための主任が必要。そして、売り場のほうに複数の売り子がいる理由は「無駄話をするため」だそうです。
 ともかく、我々日本人には買うものも無く、また売り子の態度は耐えられません。買い物をするなら、インツーリストに尋ねて、ベリョースカと呼ばれる外人専用ショップ、ドルショップと呼ばれる外貨ショップに行くべきでしょう。

 ちなみに、ロシアの物価についてだいたいのところを書いておきます。ルーブルで書いてもいいのですが、年に数100%のインフレの時代に全く意味がありません。ドル換算、円換算の値段というのは比較的安定しているので円で書いておきますと、

   労働者の平均賃金:  月給 2000円
   スーパーのパン:         1円
   街角のアイスクリーム:      5円
   バスの回数券(11枚綴):    5円
   街角の食堂:          20円(1食分、飲物などを含めて)
   一般のホテルのレストラン:  100円(1食分、飲物などを含めて)
   本:               5円
   電話:             10銭
   ガソリン:            2円/リットル
   タクシー:          500円(交渉による)
   ホテル:          2〜3万円(観光客用ホテルは恐ろしいほど高い)
   観光客用ホテルのレストラン:5000円
   レンタカー:         1万円/日(運転手付き)

です。

 見るとわかるように、一般のロシア人が生活するための値段と外国人用の値段と全く桁が違います。同じホテルであっても、外国人が泊まる場合とロシア人が泊まる場合の値段は何桁も違うのです。
 タクシーは、ロシア人相手には当然ルーブルで1回10円くらいで乗せています。ところが、外国人とみると、まず十ドルといってふっかけるのです。我々にとって街の端から端まで走って十ドルというのは安いですから、そのまま払ってしまうのですが、「5ドルでないと乗らない」といってねぎると簡単に安くなります。
  タクシーの運転手にとっては、ロシア人を100回乗せるよりも、外国人を乗せて十ドルもらったほうがはるかに効率がいい訳です。そのため、タクシーは空港や外国人用ホテルなどにいりびたって、街角でひろうのはひと苦労するということになります。

 買い物はベリョースカ、ドルショップがいいと書きましたが、これを見つけるのはひと苦労です。特にベリョースカは一般のロシア人の目にふれないように建物の奥深くにあります。物不足のロシアの人々の反感をかうことを恐れてか、何重にもなったドアをくぐり、ドア番の男にパスポートを見せ、階段をあがり、角を曲がった奥にあります。とても、単独で見つけるのは不可能です。もし、みつけることができると、そこは別世界、ふんだんに商品があり、モスクワ空港の免税店と同じように世界共通の値段で(ドルでも円でも)物が買えるのですが・・・。

 買い物というと、外人客の多いホテルでは従業員が闇で商売をしている場合があります。ウェイターがやってきてこっそりと「友達を紹介したい」といいます。ついていくと、奥まった部屋に鞄を持った男がいて、周囲の物音を気にしながら商品を見せます。双眼鏡やラジオなどもありますが、狙い目は琥珀のブローチやネックレスなど。免税店で買うものと比べてデザインはいまいちですが、はるかに安い値段で買えます。もちろん、この場合の支払いは全てドルです。

 ロシアで私の気に入った買い物は、琥珀とアイスクリームです。琥珀は中に虫の化石の入った品質の良いものが格安で手に入る場合があります。ただし、デザイン、加工はおそまつなので、日本に帰ってから宝石商に直してもらうと良いかもしれません。
 アイスクリームは、なかなかのものです。けっこう種類があって、おいしいのです。街を歩いていると、アイスクリームを食べながら歩いている人々に出会う場合があります。どこかで、アイスクリームを売っているのです。この時、その店を捜すのは簡単で、人々の食べているアイスクリームの残量を見るのです。正しい方向へ向かっていると、残量が増えていって、2、3本両手に持っている人なども現れてきます。そこであたりを見回すと、街角に店がでているという具合です。

13.ノボシビルスク研究所

 私の仕事のことを書いてもしょうがないので研究所での生活は書かなかったのですが、これまでのものを読み返してみると、私はウォッカを飲んで観光ばかりしていたみたいです。そうではないのだ、ということを印象づけるために研究所での生活をすこし書いておきます。

 朝は、10時に迎えの車が来ます。だいたい朝はみんな遅いようでミーティングなども11時から始まります。昼食前にひと仕事をして、昼食は2時くらいからです。食堂は一般職員用、上級職員用、役職者用などに細かく分かれていて、ディモフ博士と一緒に食事をするときはこじんまりとした瀟洒なレストランで、また、ベルチェンコ博士と食事するときは科学者専用のウェイトレスの居るレストランです。食事の内容はいずれも、酢漬けキャベツのサラダにボルシチっぽいスープ、鮭の薫製かサラミソーセージ、それに堅い肉と黒パンでした。一度、フレッシュサラダがあるといって、キュウリのぶつ切りがでてきた時には感激しました。
 食堂の材料というのは、入荷するときには一度に大量に同じものが入荷する、しないとなると何カ月も入らないという具合なので、同じメニューが続くことが多いとのことでした。一日目はおいしいな、と思ってもそれが続くと嫌になります。画一的なロシア社会というフレーズが頭に浮かびます。今、ロシアは食料不足といいますが、広い大地に十分な食料は生産されているのです。要は、人と物の効率が悪く、不必要なところに大量にあって無駄になっているだけなのですね。

 と、いかん、いかん、どうしても話が下世話なほうへ行ってしまいます。要は、昼食前というのがまとまった仕事ができる時間で、昼食後はセミナーや見学などで時間をつぶしました。
 今回の招待にあたって、飛行機、ホテル代、食事代などすべてノボシビルスク研究所が負担してくれたのですが、その他に日当を払ってくれました。何枚もの紙にサインをして封筒に入ったルーブル札をもらいます。研究所の平均賃金の2、3倍だという話ですが日本円に直すとわずかに日当150円ほどでした。日本へ帰ってきてみんなに「時給20円の労働者」と笑われてしましました。

 滞在中に3回ほどのセミナーを開きました。1回は日本と私の属する研究所の全般について、あとの2回は私の専門分野についてです。私の研究所からの訪問は初めてらしくて、いずれも百人以上の人が集まってくれ、熱心に聞いてくれました。研究所の人々で英語を流暢に扱える人はまれですから、セミナーではデュデュニコフ博士が横についてくれ、私の英語の説明をロシア語に通訳してくれます。試しに冗談を言ってみると、約1/3の人が直後に笑い、残りはデュデュニコフ博士のロシア語を聞いてから笑います。あとで何人かの研究者に
「以前来たアメリカ人の英語はわかりにくかったが、お前の英語は良くわかる」
と誉めてもらいました。
単に英語がうまくなくて、ゆっくりと簡単な言葉を選んでしゃべっているだけなのですが。

14.治安について

 ソ連時代、社会の治安は極めて良かったそうです。ホテルなどでも盗難は皆無。机の上に現金を出しておいても盗まれなかったそうです。(もっとも、あれほど厳重な入口管理をしていれば大丈夫でしょうけど)モスクワ空港などでも、荷物を置いて1時間離れても大丈夫という雰囲気だったと聞きました。
 ところが、このところの社会の混乱で犯罪が増えてきているといいます。失業した若者や激しいインフレのために生活できなくなった人々が、生きるために盗みを働くというケースが増えているのです。西側の情報がそのまま入ってきて、これまでの社会の不公平に対して、また西側との格差に失望して自暴自棄になっているのだといいます。

 実は、デュデュニコフ博士は私の訪問する2カ月前に強盗に襲われ、博士はまだ頭に傷を負っていました。夜8時ころ博士の自宅に3人組の若者が突然押し入ってきて、博士と息子をロープで縛り、金のほかステレオなどの金目のものを根こそぎ持っていったそうです。博士の息子の宝物であるカシオのキーボードは隠していて大丈夫だったとかで、訪問した時は息子がキーボードで音楽を聞かせてくれました。
「数年前までは決してこんなことはなかったのに。本当に社会が混乱している」
と博士がこぼします。
 ただ、そうはいっても、アメリカなどと比べるとはるかに治安は良いようです。ホテルでの貴重品の保管や外出時の荷物の管理、空港での盗難などに気をつかう必要はあまりありません。深夜、街を歩いていても危険を感じませんでした。

15.日本へ

 短い間でしたが、訪問が終わり、4月の雪の降る日にノボシビルスク空港を発ちました。朝5時にホテルを発ち空港に6時に着きますと、まだ暗い空港の1階は、大勢の人で身動きもできないほどです。ベルチェンコ博士に礼を告げ、外人専用待合い室の2階に上がりました。3人ほどの韓国人らしいグループがいました。その奥にカーボーイハットをかぶったアメリカ人がいます。観光客のようです。「アメリカ人って、どこでもいるなあ」と感心していると、むこうの方でも私を見つけました。目があって、ついアメリカ人に会った時の癖でニコッと笑うと私の方へつかつかと近づいてきます。そして
「おまえは、日本人か?」
と聞きます。
「そうです。あなたはアメリカからですか?」
と英語で答えますと顔がぱっと輝いて、
「いや〜、ひどいところだった。こんなところに二度とくるものじゃない。サービスは悪い、ホテルはぼろぼろ、観光なんて何もできなかった。タクシーを頼んだら高くて・・・・・」
と矢継ぎ早に文句がでてきます。
「こんなところに観光にくるなよなあ」
と思ったのを口に出さず、相づちをうちます。

 ロシアに旅行した人、十人に聞きますと、十人が十人>
「ひどいところだった、二度とくるものか」
といいます。
シンガポールを訪れた人みんなが、
「とてもよかった。またきてみたい」
と言うのと対照的です。

 確かに、ロシアには不愉快な面が多くあり、社会の混乱がそれに拍車をかけています。しかし、いわば今は日本の戦後、焼け跡なのだと思います。従来の価値観、システムが崩壊し、新しい芽生えが息づく時代です。本当に有能な人にとっては大きなチャンスがある時代です。ロシアの人々は本質的には陽気で、親切だと思います。先程のアメリカ人も文句を言ったあとで
「ロシア人というのはアメリカ人に気質が似ているようにおもう」
と言っているように、新しい時代が始まれば良い友人になれるのでしょう。
 イリューシンの同型機が見渡す限り立ち並ぶノボシビルスク空港をあとにしながら、ロシアの未来が明るいことを願った私でした。

−おわり−

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