父のこと

About my father


家庭をもって35年、元旦の雑煮はずっと私が作っています。これは父の影響です。

毎年、年末の大掃除が終わると、父は正月の神様のための神棚を作りました。玄関、座敷、台所はもちろん、トイレに至るまで神棚を設け、大晦日と正月三ケ日は、家族全員が一日三回、食事の前に全ての神棚を回って拝んでいました。

元旦には新しい下着に着替え、正装をして座敷に集まりました。お屠蘇のあと、順番に鏡餅を頭に掲げて、『○才』と数え年を唱えて年を頂きました。それらの儀式を仕切る神官は父で、子供ながらにその厳かさに震えたものです。

元旦の雑煮は、普段は台所に立たない父が作っていました。台所仕事は主婦の仕事であり、仕事始めは二日からなので主婦は台所に立てない。従って、男が元旦の雑煮を作るという訳です。

そして、正月二日には、田んぼに榊を立てて清めた場所に、鍬で土をかけていました。それが百姓としての仕事始めであり、それが終わって初めて、子供たちは子供の仕事である勉強や遊びができたのです。

普段は寡黙な父であり、『わしは学がないから』と、私に何かを教えたり、勉強しろと言ったことは一度もありませんでした。

私が大学の研究室に入った時の指導教授は、柔らかな優しさを持つ人格者で、私は今でも尊敬しているのですが、会うといつも『哲学していますか?』と聞かれていました。研究には哲学が無いといけない、というのが口癖だったのです。ある時、私の結婚の仲人を頼んだ際に田舎まで来てもらって父が挨拶をしました。

その後のことです。教授が私に『貴方のバックグラウンドが分かりましたよ。芯の強さは父上譲りなんですね』と誉めてくれ、私の父について『農業をしている時、お父さんは哲学をしているのです』といいました。


米国カリフォルニアのバークレー研究所で世話になった米国人の友人夫婦が日本に来た時、『古い日本は四国に残っている』という英文記事を読んで、四国を旅行したいと言い出しました。

それなら、私の実家に泊まるといいと勧め、英語をしゃべれるように大学生の姪や甥に世話を頼みました。結局、それらの甥や姪は役に立たず、私の兄嫁がボディランゲージでうまくコミュニケーションをとって、米国人夫婦は楽しい休暇を松山で過ごしたようです。

その友人が『お前の父上はとても立派だ』と感心していました。『会話なんかしなかっただろ?』と聞くと、『しゃべらなくても分かる』と。

太平洋戦争に海軍の兵士として従軍した父は、酒に酔った時に『わしの所には弾が飛んでこないから、わしの所にみんな集まれ』と言ったんだ、などという話をしていましたが、具体的にどのような所で戦ったについては話しませんでした。

ただ、父にとって護国神社は特別な場所だったようで、戦友が眠っている場所として初詣などの機会に頻繁に訪れてました。

東京の八王子に父を慕っている戦友がいて、私が中学の旅行で東京に出た時に宿まで訪ねてくれたり、大学の時には八王子の自宅に泊めてもらいました。父よりもかなり若く、従軍中は父に庇ってもらったのだと、いろいろな話を聞きました。若い頃の父の意外な一面をみた気がしました。

その父は、86才の夏に脳溢血で亡くなりました。前日まで野良仕事に精を出し、その日も朝のうちに田んぼに出て、その後自分の部屋に上がろうとして縁側で倒れたようです。

前日まで元気に働き、誰にも迷惑をかけない。潔い死に方も、父らしいなと思うのです。


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