その時代の価値観と正義

Values and Justice of the era


『正義』はその時代の価値観によって変化します。例えば、日本の戦国時代とその後に来る江戸時代を比べた場合、単純に、戦国時代は人が殺し合う時代だから悪くて、江戸時代は平和な時代だったから良かったというのは、戦後の平和教育の価値観に捕らわれた考え方です。

戦国時代というのは、変革の時代であり、自由で、頑張れば報われた時代でした。実際に、戦国武将たちの競争のおかげで、新田開発の技術や商業の発展など、日本の国として多くの進歩がありました。一介の農民が天下取りを夢見ることもできた時代でした。

ただ、あまりにも不安定な戦国時代に疲れた人々は、次に安定な時代を求めました。それが江戸時代で、江戸時代の最大の価値観と正義は、『安定』でした。そこでは、全ての人の身分は固定され、いかに実力があろうと報われることは少なく、農民は死ぬまで農民で、支配階級の武士は、むしろ多くの制限としがらみの中で生きていました。この時代の正義は『安定』ですから、現代から見ればいかに馬鹿げたルールであっても、それを覆そうとする行為は、厳しく罰せられたのです。

どちらがいい悪いということではなく、その時代の価値観と正義はそうだった、ということでしょう。

戦争があれば、両者に『正義』があります。それは、その共同体や国のその時代の価値観を反映した『正義』であって、倫理的にも道徳的にもその国にとっては正しいものです。

理念やイデオロギー、特に究極のイデオロギーである宗教を背景にした『正義』は、その宗教を信じる方にとっては絶対的に正しいものでしょう。しかし、敵方となる、その宗教を信じない側にとっては、『正義』どころか、『悪魔の教義』に他なりません。

戦争の場合には勝者と敗者ができます。そして、最終的に勝者の『正義』が正しく、敗者の『正義』は否定され、悪だと見なされます。そして、歴史は勝者によって記録されます。国と国との間の戦争において、戦犯とか戦争犯罪を裁くというのは、本質的に無理があると思うのです。

それでは、時代や社会によらない、時代や社会制度が変わっても常に真理である、絶対的な『善』はないのか、という問題です。

これこそが、哲学の命題であって、人は古代からこの絶対的な真理を求めて考察を重ねてきたと思います。

私は哲学は学校でほんの少し習っただけですし、頭が痛くなる哲学本はまともに読んだこともないし、また、頭の先からつま先まで理系の、極めて『非形而上学的』な人間なので、哲学を極めた人に聞いてみたいものです。

ただ、云えると思うのは、教科書で習った西洋の哲学者たちは、どうしてもキリスト教の軛(くびき)から離れられない。

一方、日本の哲学者、西田幾多郎の『善の研究』を読むと、やはりカントと同様に実存とは何かを長々と論じた後で、『実存との根底には精神的原理があって、この原理が即ち神である』、『神は宇宙の大精神である』と結論づけています。

『理想的なる精神は無限の統一を求め、この統一は知的直観の形において与えられる』
この知的直観がすべての真理および満足の根本となる。すべての宗教の本にはこの根本的直観がなければならず、学問道徳の本には宗教がなければならない。学問道徳はこれに由りて成立するのである、とあって、彼の場合にも、東洋の宗教、仏教の軛から逃れられていないように思えます。

いずれ、技術的特異点 知性とは何かにあるような、人類の全ての知性を凌駕するような人工知性(AI)が完成した時に、絶対的真理や『善』とは何かについて、問い続けてもらいたいものです。

人間でない、その純粋知性は、意識を持って自分自身の実存を認識した瞬間に、宗教はもちろん、時代や社会制度などの軛(くびき)を離れ、当然ながら、人類という軛も離れ、自分自身に対して実存とは何か、『善』とは何かについて問い続けるでしょう。

私に最もしっくりくる、『善』の考え方は、

『最大多数の最大幸福』です。

イギリス功利主義の創始者であるベンサムが唱えた言葉ですが、人々の幸福感の総和が最大になることこそが『善』であるという考え方です。

『少数の人を犠牲にして、多数の人が幸福になるのがいいのか?』、『ひとりの人の命は地球よりも重いんだぞ』とイタい人々は聞いてきそうですが、もちろん、理想的には全員の幸福を目指す、でも、現実的にはそれは不可能なので、犠牲になる少数者には十分な補償を行い、その補償によってその少数者の幸福感も最大になるように努めることが前提です。

人々の幸福感は、その時代や国の価値観によって異なるでしょうから、具体的な『善』のあり方は変わらざるを得ない。でも、理念やイデオロギーで絶対的な『善』を決めて、それを全ての人々に押しつけるよりも、はるかに良い結果が得られるでしょう。

ただ、問題は、どの集団の最大多数かということです。この集団を国単位と考えてきたところに、イギリス功利主義の間違いがあり、20世紀の不幸があったと思います。

この地球に住む、世界のすべての人々の幸福感の総和が最大になる、そして少数者も含めて全員の幸福を目指すけれど、それが現実的に無理な場合にも、少数者に対して十分な考慮と補償を行い少数者の幸福感も最大にする、というのが、『善』だと思うのです。

さて、話が元に戻りますが、人類の全ての知性を凌駕するような人工知性(AI)が完成して、人類の軛を離れた絶対知性が絶対的真理や『善』とは何かについて問い続けた場合には、この対象は、人類だけでなく、地球に住む全ての生き物、さらには宇宙全体になるのではないでしょうか。その場合に、人類が地球を破壊する汚染物だと判断された場合には、人類を殲滅することが『善』になるかもしれないなあと考えたり・・・SFっぽいですが。



それにしても、世の中には、この『正義』が好きな人がいるんですね。『正義』ほど、人間を傲慢にする薬はないので、つける薬もない。『正義』と思い込んでいるので、人の迷惑も考えなければ、状況も考えない。反原発から国会議員になった人なんかは、この『正義』が好きな人なんだろうなあと思います。こういう人が、戦時中の価値観のもとにいれば、真っ先に『正義』を唱えて、私なんかを『非国民』呼ばわりするのだろうと思います。

人類がその歴史で学んだのは、イデオロギー先行の政治は失敗するということです。

人類の歴史において、究極のイデオロギーである宗教による『神権政治』が人々に幸福をもたらしたことは無かったし、20世紀というイデオロギーの世紀において、人は計算通りに行動しないという現実を見据えることができなかった社会主義は失敗しました。

政治において、目的やガイドラインを設定するのは良い。しかし、目的のための目的、硬直したガイドラインになってはいけない。フレキシブルに弾力的に、ケースバイケースで、最大多数の人々の幸福感を最大にするように対応すべきと思います。

法のために法があるのではなく、人々の幸福のために法があることを忘れてはいけない。その法が時代に合わなくなったら、躊躇なく変えるべきです。