妻のこと

About my wife


妻と出会ったのは大学4年の時でした。

その頃、私は家庭教師をしていた家の離れを男二人で借りて、自炊生活をしていました。すぐ近くに「めらんぽ」という、昼は喫茶店、夜はスナックになる小さな店があって、よくそこで時間をつぶしていました。

ある時、そこにアルバイトの女子大生が二人入ったのです。ひとりは背の高い北海道出身の長い顔の女の子、ひとりは中肉中背の丸顔の女の子でした。

ある時、「めらんぽ」で顔なじみになったといって、同居している男が丸顔の女の子を連れてきました。私は不在だったのですが、その時に私の部屋を見たそうです。大宅歩の詩集(注1)とかがあって、私に興味をもったそうです。

しばらくして、節分だというので、女の子が鰯(いわし)を持ってきました。西日本では節分に鰯を食べる風習があって、その女の子は広島出身と分かりました。

下宿先もすぐ近所、ほんの50メートルほどでした。

そのお返しというのではありませんが、当時、私が熟練してたパチンコで少し儲けたときに、一部をチョコレートに替えて、女の子の下宿先に持って行きました。それが、今の妻との出会いだったのです。

一緒に京都や奈良を歩くようになりました。

ある時、レンタカーを借りて京都をドライブした時、深夜の駐車場で車のエンジンがかからなくなりました。レンタカーの整備不良でバッテリー液が無かったのです。トイレの水をバッテリーに入れ、一旦、エンジンがかかれば充電しながら走れるだろうと、坂の上まで車を押して、そこから坂道を下る力でエンジンをかけました。妻は、それを見て「こいつは出来る」と思ったそうです。

京都の大原に一泊旅行をした時に、宿の部屋で「将来、結婚するのもいいね」と言いました。私が覚えているプロポーズの言葉はそれなのですが、妻の記憶は違うかもしれません。


しばらくして、二人そろって同じアパートに引っ越しました。隣同士の部屋を借りて、ひとつの部屋をリビングに、ひとつの部屋を寝室に使って同居状態になりました。いわゆる同棲です。

当時流行っていたフォークソング、かぐや姫の『神田川』の歌詞にある、

♪赤い手ぬぐいマフラーにして 二人で行った 横丁の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪がしんまで冷えて 小さな石鹸 カタカタなった・・

という生活でした。ただ、違いは、風呂屋ではいつも私が待たされていたことです。

妻が大学を卒業し、教員として採用された広島市に転居しました。同じタイミングで、私は大学院を中退し、茨城県東海村にある研究所に就職しました。

広島市と東海村は約1000km離れていますが、毎日手紙を交わし、2週間に1回ずつ会いました。金曜日の仕事が終わるとすぐに特急電車で東京に出て、深夜に東京発の寝台特急『瀬戸』に乗る。そして、岡山で降りて、朝一番の新幹線で広島へ。そして、土日の二日間を一緒に過ごした後、日曜日の夜に最終の新幹線で京都に出て、深夜の寝台特急『出雲』に乗る。朝、6時半に『出雲』が東京駅に着き、7時に上野発の特急に乗れば、月曜9時の就業時間に間に合うというスケジュールでした。


そして、就職して1年たった頃に結婚式をあげました。

ただ、広島市と東海村の別居状態はそのままで、妻は広島市で教員を続け、私は新婚旅行のあと研究所の寮に戻ってそれまでと同様の独身生活を続けました。

結婚式をあげた事を知っている寮の仲間が、私を見て『えっ、結婚したんじゃなかったっけ?』と聞いてきました。面倒なので、『いやあ、新婚旅行で逃げられちゃって』と答えていたら、私が逃げられたという噂が広まったみたいで、誰も聞いてくれなくなりました。

月2回の逢瀬でしたが、結婚式をあげてすぐ、妻が妊娠しました。それでも、大きなお腹を抱えて教員を続け、臨月近くになって教員を止めて、茨城県東海村に引っ越してきました。私も寮を出て夫婦として一緒に暮らすようになりました。

(注1:大宅歩は、評論家の大宅壮一の長男。33才で死去。朝日ジャーナル、高野悦子『二十歳の原点』、大宅歩『詩と反逆と死』を持って、ジャズ喫茶『シアンクレール』に入り浸り、フォーク喫茶『ほんやら洞』で歌って、学生運動にも参加するというのが当時の私でした。若かったなあ・・・)

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